聖書QandA



クリスチャンについてや聖書に関する質問を浅井牧師がお答えしています。


クリスチャンに関しての質問


Q1. クリスチャンって誰?キリスト教と他の宗教の違いとは?

クリスチャンというのは、イエスキリストが自分の罪の為に十字架で死なれ、その結果、自分の罪はもはや赦されていると信じている人の事です。良い行いや悔悟によって罪は赦されません、イエス様の十字架の恵み、そして哀れみによってしか救われる事はないと信じています。どんな小さな罪でも、犯してしまったら、地獄に行かなければいけません。それ以外の方法はないです。しかし、父なる神は、ひとり子をこの世に送らせ、全く罪のない者として、私たちの代わりに死なせ、地獄に行かせたのです。このひとり子、イエスは、私たちが本当は行くべき地獄に下り、罪の代金を払って下さいました。そして、三日目に甦ったのです。イエス様の十字架によって赦されない程重い罪はありません。でも、何故父なる神は私たちが赦される事が出来るようにひとり子を殺したのでしょう?それは、私たちをそれ程愛して下さっているからです。誰でもこれを信じ、「イエスは主」と口で告白した者はクリスチャンなのです。それだけが条件です。シンプルでしょう?

Q2. 死んだ後、どうなるの?

人間は皆、3つの部分で出来ているのです:体、魂、そして霊。ぶつかりあう思いや願いで争奪した事ないですか?これは、貴方の体の中に二つの別の存在者がいるから可能なのです。貴方の魂と霊がある意味では戦っているのです。死ぬという時は、肉体の体だけが死んでなくなります。魂と霊は体が死んでしまった後でも、生き続け、死ぬ事はないです。なぜなら物質の物で出来ていないからです。私の霊は皆天国(来た所)へ戻って行きます。しかし、魂は天国でも地獄でも行く事ができます。罪を犯してしまった人の魂は全て地獄に行かなければいけません。しかし、イエス様を信じた人の魂は、十字架によってもう買い戻されたので、天国へ行かせてもらえます。天国も、地獄も、実際にある場所です。死なれた後、全ての人間がどちらかに行って、そこで永遠と住むのです。

Q3. どうやって自分にある罪責感、恐れ、疑い、怒りや、憂鬱を取り除けるの?

全てこのような苦しみは罪から来ています。なので、初めの一歩はとにかく罪を取り除く事です。罪を取り除く方法はただ一つ:イエス様を貴方の主、貴方の救い主として受け入れる事です。これを行った時、イエス様は貴方の人生に入り、生活を一緒にし、一歩一歩共に歩き、貴方を導き始めるのです!思いっきり頑張って努力しても、このような苦しみは貴方の力で取り除く事はできません。試しても、失敗にしかいたりません。そして、前より酷い罪責感、疑い、怒りなどに落ち込みます。イエス様が貴方の人生に入ってくると、自然とこのような物は消えて無くなります。


聖書に関しての質問


Q4. 人は、どうしたらクリスチャンになれるのでしょうか。洗礼を受けないとクリスチャンになれないのでしょうか。

まず、「クリスチャンになる」とはどういう意味かを定義しておかないとこの質問には答えられないですね。もし、ただ単に宗教的な意味だけでクリスチャンに なるということを考えるならば、どこかの宗派や教会の会員になって、そこに属せば、クリスチャンになったと言えるでしょう。ちょうど、日本人が「私の家は 仏教です」というのと同じです。仏教徒といっても、普通は別に何かを心から信じているわけではありません。そう意味での「クリスチャンになる」というので なれば、洗礼を受けることは、その教会なり、宗派に属することを意味し、それで「クリスチャンになった」と言えます。聖書の言うクリスチャンのことは、キ リストに従う者のことであり、キリストの弟子になる人たちのことです。そして、そのキリストは誰なのかと言えば、あなたやわたしの罪のために十字架に死で くださった方です。つまり、本当の意味でのクリスチャンとは、イエス・キリストが自分の罪のために死んで下さり、また3日目に死からよみがって下さったこ とを心で信じ、またそれを口で告白する人のことです。聖書には次のように書かれています。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです(ローマ人への手紙10:9)。

ここでは、イエスを信じて、口で告白する者が「救われる」という言葉で表現されていますが、簡単に言えば、これが普通、私たちクリスチャンが「クリスチャ ンになる」と言っている意味でもあります。心で信じて、口で告白するとクリスチャンになれるというのです。ここで注意してほしいのは、「洗礼を受けるなら ば」とか、どこかの「教会に属するならば」とか、もっと言えば、「教会に通うならば」という条件もついていないことです。これはちょっと驚きですが、これ が真理です。人間の救いは、非常に霊的なものであり、あなたは、自分と神様との個人的な関係のみで救われます。親がクリスチャンであるとか、教会という建 物に通うとか、クリスチャンの何かの行事に参加するとか、そういったものはみな、あたたの外側の上辺のことであって、それによって、あなたの罪が赦され、 あなたの心が変わり、あなたの人生が変わるわけではありません。クリスチャンになるとは、今までの生き方を止め、キリストにある新しい人生を歩むことで す。それは、神の救いの力なくしてはできないことです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(第2コリント5:17)。

Q5: 天国と地獄は本当にあるのでしょうか。人間は死んだら、もう存在しないと思いますが。

天国と地獄があって、人間は死んでからそのどちらかに入れられる、というのは、世界中どこの文化の人たちも、またいろんな宗教の人たちも信じているようで す。しかし、それを数学や科学のように証明することは、残念ながら不可能です。ただ、聖書に書かれていることを、そのまま述べることしかできません。そし て、それを信じるか信じないかは、あなたにかかっています。

 聖書は確かに、この物質の世界で生きる人間が死んでから入る死後の世界について述べています。しかし、実は、人々が思うほど、聖書は人の死後の世界がど のようなものであるかを述べていないのです。それよりも、聖書はその99パーセントが、人間がどのようにこの地上で生きるべきか、また神様がどのように私 たちの地上での生活に関して働かれるかということについて述べたものと言えます。これはちょっと驚きです。さて、死後の世界に関することばとして典型的な ものは、次のようなものでしょう。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、、、(ヘブル9:27)。

おそらく、天国と地獄に関して一番具体的に触れているのは、ラザロと金持ちの話しでしょう。

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持 ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラ ハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しか も、そのふところにラザロが見えた(ルカ16:19以降)。

この話しの中では二人の人が死んで、その後入って行った所について書かれています。これは、イエス様の話されたもので、普通はたとえ話とよばれる種類の話 しです。しかし、たとえ話というのは、「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、、、」といった感じで、固有名詞を使わないのが普通ですが、上のたとえ話 では、「ラザロ」という固有名詞が使われているのが非常に不思議です。あたかも、イエス様が実際に起きた話しをしておられるように思えます。そして、どう いう訳か、金持ちの名前は述べられていません。いずれにせよ、この話しによれば、死んだ人間が死後も存在しており、入る場所が同じではないことが分かりま す。一つは「アブラハムのふところ」、もう一つは「ハデス」です。

その金持ちは、ハデスで苦しみながら、目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかもそのふところにラザロが見えた(20節)。


どうも、ハデスというところはあまりいい所ではないようですね。一方の世界から他方の世界が見えるようんです。誰がそこにいるかということも分かるみたいですね。

彼は叫んで言った。「父アブラハムさま。わたしをあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません(24節)。」


この話しはまだ続いていきますが、ハデスというところは、とにかく、苦しくてたまらない所のようです。人は死後も存在し続け、地上での生活の記憶があって、地上で会った人のことを覚えていて、互いに誰であるのかも分かるようです。

 もし、こういったことが本当であるとしたら、大変なことです。誰も、そんなハデスには行きたくはないですからね。それにしても、この金持ちはどうして、 このような所に入れられてしまったのでしょうか。またこの後どうなるのでしょうか。それはまた、次の機会にしましょう。ただ、次のようなみことばがあります。

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それ は、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死 もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた、これが第 二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた(黙示録20:12-15)。



興味ありますか?では、是非ダヴァール教会に来て、探している物を見つけ出してみて下さい!キリスト教というのは、勉強する物ではなく、実際に体験するものです。神は生きておられ、今、ここで働いています。さあ、貴方の為に何をして下さるのでしょう?

ご質問がありましたら、info@davarkg.com にお問い合わせください。









Copyright © Davar Kingdom of God, All Rights Reserved.