水曜聖書の学び

創世記34章 No.1:

20年ぶりにヤコブに会ったエサウは、ヤコブに対する怒りは全くなく、彼を受け入れ、二人は再会をともに喜びました。ヤコブはあんなに恐れていたのに、実際に会うと、このように自分を受け入れてくれた兄の顔が、まるで神の顔を見るようだと告白しています。それは、ちょうど自分の過去の過ちを考えると、神が自分を罰しようと思っておられると恐れる人が、神の前に近づき、その赦しと和解を受け入れるのに似ています。まさしく、それが、ヤコブがヤボクの渡しの所で、神と戦ったことの意味でもあります。人間には神様の大きさ、あわれみの心が分かりにくいようです。兄のことをあんなに恐れて、いろいろな策を練って自分を守ろうとしたヤコブは、兄に会って、さぞかし心が解放されたでしょう。それと同時に、自分の心配したことが馬鹿のように思われたことでしょう。あんなにして神様に祈る必要もなかったのです。心配は、人が自分で考えて、自分で造り出すものです。自分で考えて、自分で心配して、自分で悩んでいるだけで、馬鹿な話しです。
さて、話しは、ヤコブが兄に会ったあとのことに移っていきます。ヤコブは、エサウの勧めにもかかわらず、兄の住んでいたセイルに行くことを止め、自分の故郷にすぐに向かいます。ヨルダン川を渡り、西に進み、パレスチナのほぼ中央にあるシェケムの近くに住むようになりました。そんな時、レアの一番下の女の子、ディナが、町のカナン人のある有力な家の息子であるシェケムという青年に好かれて、彼に犯されるということが起きました。ヤコブはそのニュースを聞いても黙っていましたが、可愛いい妹がそんな目に会わされたことを知った兄達は怒ります。さあ、どうなるでしょうか。