水曜聖書の学び

創世記39章、No.1:

自分は何も悪いことをしていないのに、妬みから商人に売られてしまい、エジプトに連れられていったヨセフですが、エジプトのある役人の家に売られて行きました。どう考えても、これは幸せとは反対のことが起きていたヨセフですが、聖書はいきなり、「主がヨセフとともにおられたので」ということばから、この話しを始めています。考えてみて下さい。本当に「主がともにおられる」なら、なぜこんなことが彼の身に起きるのでしょうか。大抵の人は、こういう時には、悲劇のヒーローをして、「主は私とはともにおられない」と思ってしまうでしょう。「主がともにおられた」という表現が、すぐこの後、21節と23節にも出ていて、これがヨセフの話しの大きな主題の一つになっているは言うまでもありませんが、実は、この表現は、もうすでにアブラハム、イサク、そしてヤコブの話しの中でも何回か出てきました。「主がともにおられる」とどうなるか、ということを、それぞれの話しを読んで、探ってみました。ところが、ヨセフの話しになると、この同じ表現が違う意味を含んで来ていることに気が付きます。それは、2節の「幸運な人となり」という表現にもすでに表されています。