日曜イベント「日曜4時」には、土曜の礼拝とは違って、ただ説教を聞くだけではなく、説教者からの質問に答えたり、自由に発言する形で、普通見落としてしまう真理や、知ったつもりでも分かっていない聖書のことばの意味をともに学んでいます。毎週日曜日には、その前日の土曜の説教に関する 問題(みことばドリル) が希望者に配布され、その週の間の家庭礼拝にてそれらの問題に答えながらみことばを学ぶことになっていますが、浅井牧師がそれらの答えを参考しながら、一週間前の説教の盲点となることを解き明かしてくれます。また、説教の後は、特に、学んだみことばの上に立って、聖霊の臨在の中で祈っていきます。でも、「日曜4時」には、何が起きるか分かりません。来てからのお楽しみです。
「日曜4時」のメッセージの説教はすべて録音されております。説教CDを購入されたい方、
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尚、説教CDは定期購入も、また単発購入もできます。
2012年4月15日 説教ドリル「わたしも生きる(復活祭)」 
みことば: ローマ6:1-14
テーマ:「わたしも生きる(復活祭)」
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか(ローマ6:3)。
バプテスマに関して、新約の時代のクリスチャンたちは、今日のクリスチャンたちとはずいぶん異なった考え方をしていたようだ。それは、今日、教会というものが霊的なキリストのからだというより、人間的な組織という意識が強くなってしまったことによる。バプテスマは、その組織への入籍という感覚だ。こういったことを、単なる考え方の違いとして見るのではなく、霊的な現実、つまり、聖書の真理がどこにあるのかを探ろうとして見る目が必要である。
注目したら良いのは、当時のクリスチャンたちの間では、ヨハネのバプテスマと、イエスのバプテスマを分けていたという事実。イエスのバプテスマと言っても、異言をともなう聖霊のバプテスマのことを言っているのではない。両方とも水のバプテスマのこと(使徒19:1−7、ヨハネ3:22以降、4:1−2参照)。ローマ6章は、イエスの御名による水のバプテスマを受けたクリスチャンが、霊的にどんな現実の中に入れられたのかを明確に説明したもの。鍵は、これを霊の世界における現実として受け入れるところにある。
それが、上のみことば(3節)の「キリスト・イエスにつくバプテスマ」という表現に表されているが、それをさらに説明すると以下のようになる。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです(4節)。
この辺にくると、どういう意味で、このバプテスマが、ヨハネのバプテスマとは異なるのかが、はっきりして来る。ヨハネが私たちの罪のために死んだのでも、葬られたのでも、また復活したわけでもない。ヨハネは、単に「悔い改めのバプテスマ(使徒19:4)」を説いたに過ぎない。それは、自分が神の前に罪を犯したことを悔いて、そこから清められる(同じ間違いを犯さないように)ことを求めるもの。キリストの死と復活は、まだ現実化されていない状態。大事なことは、イエスを通して起きた、霊の世界での現実である。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです(5節)。
目で見える所では、キリストはローマ兵の手で十字架に付けられ、血を流し、死んで行かれた。しかし、霊の世界では、あなたやわたしの罪を負い、死んで、よみに下られた。それによって、私たちが「キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっている。」これが、私たちに対する、霊の世界の現実。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(6−7節)。
2000年前に生きていなかった私たちが、どのようにして「キリストとともに十字架につけられた」と言えるのか。目に見える現実においては、それは不可能。しかし、霊の世界では、私たちはみな、イエス様とともに十字架で死に、葬られ、よみがえった。「私たちの古い人」は滅び、新しい人が生きている。したがって、今さら、古い自分のまま罪に支配されて歩むならば(その生き方をしたいと思うなら、それができる)、その現実に反した偽りの歩み方をしていることになる。ここで注意すべきは、「知っている」ということば。それが現実ならば、私たちはそれを「知っている」となる。ところが、これが、将来、体も完全に贖われ、実際に復活のからだを持つ時のことを言うならば、それを「信じます」となる。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます(7節)。
さらに、11節に来ると、これが、「思いなさい」に変わって来ている。どういう意味だろうか。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい(11節)。
2012年4月8日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.18 
みことば: 出エジプト17:8-16
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.18
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.18:メッセージサマリー
さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます(出エジプト17:8−9)。」
聖書は、アマレク人に関してかなりきつい言い方をしている。彼らがイスラエル人にしたことを神様が赦されなかったからである。しかし、これは、単なる民族間の戦いを示しているのではない。聖書は、多くの場合、実話を使って、比喩的に何かの真理、即ち、霊の世界での現実を教えている。地上の民族の中でも、聖書が次のように語っているような民族はいない。
主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう(14節)。」
申命記にも、この民族について次のように命令されている。
あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない(申命記25:17-19)。
その後、サウル王も、この民を絶滅するように命じられたが、彼が、その王を殺さずにいると、神様がひどく怒られた。エステルの時代には、その民族の子孫がアガグ人という名で生き延びていたらしく、アハシュエロス王に仕えていたハマンは、その中の権力者。彼はペルシャ王国中に住むユダヤ人たちをみな殺そうと企んだが、王妃となったエステルを通して、逆にハマンが殺され、ユダヤ人を憎む者たちもみな殺された。そこでは、アガグ人のことをはっきりと、「ユダヤ人の敵」と呼んでいる。
旧約聖書では、アマレク人は、サタンを比喩している。出エジプト記17章の話しでおもしろいところは、そのアマレク人を打ち負かすために、モーセが「神の杖を手に持って、丘の頂」に登ったこと。丘の下では、ヨシュアの率いるイスラエル人たちがアマレク人と戦った。
ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった(出エジプト17:10−11)。
モーセの手が上がっていたことが、勝利を決めた。聖書が言う「主が戦われる」とは、この意味。実際にこの地上で、敵に対抗するのは私たちであるが、その勝利はもうすでに決まっている。上げられたモーセの手は、私たちにとっては、イエスの名。彼の杖も同じ。キリストは、モーセが丘の頂に立ったように、高く上げられ、すべての名にまさる名が彼に与えられた。今は、神の右の座に座り、私たちのためにとりなしていて下さる。
しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った(12-13節)。
この時のモーセとヨシュアの関係が、キリストとクリスチャンの関係だ。イエスの名が私たちに与えられていることの意味がよく分る。私たちはみな、この地上でサタンの攻撃を受けるが、この関係をいつも意識して生活すると良い。勝利は、上げられたイエス様の手、即ち、すべての名にまさる名、イエスの名にある。その手が上げられている限り、私たちが負けることはない。勝利の旗はすでに掲げられた。私たちは、キリストにあって圧倒的な勝利者である。
モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシ(主はわが旗)と呼び、「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる」と言った(15−16節)。
2012年4月1日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.17 
みことば: エペソ4:1-32
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.17
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.17:メッセージサマリー
私たちが神の相続人として受け継ぐものには、誰にも一律、同じように与えられるものもあれば、それぞれの相続人に異なって与えられるものもある。今まで学んできた、イエスの御名、また聖霊は、イエスを信じる者すべてに同じように与えられる。これはちょうど、ミナの例え話において、身分の高い人が十人のしもべに一律一ミナずつ与えて商売をするように命じたことに当たる。でも注意して欲しいのは、イエス様を信じさえすれば、みな自動的に聖霊を受ける(聖書の言う意味で)わけではなく、それを求め、また信仰で受け取る必要がある。イエスの御名でも、それは信じる者すべてに与えられてはいるが、その御名にある権威を知り、御名に対する信仰を持たなくては、何の益にもならない。
ミナの例え話に非常によく似た話しが、マタイの福音書にある。
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた(マタイ25:14−15)。
この例え話の大きな特徴は、「おのおのその能力に応じて」という表現にある。一律同じように与えられたのではない。だから、ミナとは違った種類の賜物のことを言っていることが分る。相続人が受けるこの種類の賜物に関しては、パウロも、エペソの手紙の4章で述べている。
しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」‐‐この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです(エペソ4:7-10)‐‐
実は、ここでパウロが引用した詩篇68:18のみことばは、ほとんどの訳が、パウロの引用と解釈とは異なる訳し方、また解釈の仕方をしているので、要注意(それに関しては他の説教で説明をした)。ここで言う賜物がどんなものであるか、またその目的に関しては、続けてパウロが以下のように説明している。
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(11-13節)。
「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人...ある人...」とは、すべての人に一律に与えられるものとは違う。私たち現代人は、すべての人が平等であるという民主主義の考え方に慣れ過ぎているので、相続人が受けるこういった賜物に関して盲点的になる傾向にあるので、この辺をよく学ぶと良い。
これらの賜物の違いは、ここでリストアップされている使徒、預言者、伝道者といった部類のものだけと考えてはならない。他にも細かい違いのある賜物が、相続人ひとりひとりに与えられている。そういった自分を知ることは、神の国のための働き人として(すべての相続人が働き人である)どうしても必要なこと。自分を知り、また、自分とともに働く人々を知らなくては、上でいう「キリストのからだを建て上げる」ことは難しい。
こういった種類の賜物は、上から与えられるものだが、人がそれに価値を見つけ、それを求めないことには、与えられない。ただし、言うまでもなく、それは自分のために与えられるものではなくて、他人の益のため、キリストのからだを建て上げるためなので、利己的な動機で求めても与えられることはない。実は、これらの賜物、さらに、もっと一般的な表現で言えば、「霊的祝福」と呼ばれるものが、世界の創造される前から、神の相続人に与えるように計画されていたことを、このエペソの手紙の最初のところで述べられている。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました(1:3)。
2012年3月25日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.16 
みことば: ヨハネ16:1-33
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.16
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.16:メッセージサマリー
ヨハネ16章は、15章の後に来て、17章の前に来る。15章までの時点で、イエス様は既に、ご自分が父のもとに行かれることを弟子たちに明らかにされた。この辺に来ると、弟子たちはもうかなり深刻になっていた。おかげに、世がイエス様を憎んだように弟子たちをも憎むようになるとか、迫害されるようになるということばを聞いては、深刻にならざるを得ない。
これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです(16:1−3節)。
「あなたがたを殺す」とは、ただ事ではない。弟子たちの脳裏には、深刻さと同時に、「?」マークが飛び交っていた。
しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません(4-5節)。
あえて誰もイエス様に質問しようとしなかった辺、彼らの驚きとショック、また、はりつめた緊張感がよく出ている。
かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします(6-7節)。
聖霊の話しが出てくるのは、この最後のスピーチの中では、これで4回目になる。ここでは、特に、聖霊が世に対してどのような働きをなさるかが説明されている。もう既に、最初の部分で、聖霊が弟子たちとともに住み、彼らの中におられるが、世はその方を見もせず、知りもしないことを述べておられた。だからと言って、聖霊が世に対して何も働かれないという訳ではないので、ここでは、その働き方について教えられた。もし、聖霊に働いて欲しいと願うならば、彼がどのような品性を持ち、どのようなことをなさる方なのかを知ることが必要である。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
イエス様がこの地上に来られることによって救いの道が完成された、前と後では、「罪について、義について、さばきについて」、神様の働かれ方は、全く異なる。聖霊が与えられたのは、その違いを教えるためであり、その誤りを認めさせるためである。これを良く理解しないと、伝道に失敗する。聖霊様が働いて下さらなかったら、誰も救われないからだ。
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
「真理」とは、霊の世界の現実。この真理を受け入れることがむずかしいというのが、罪を犯した後の人間の一番の弱みである。それさえ克服できれば、聖書の約束する霊的祝福、しいてはこの地上でも約束されている祝福を受けることは簡単。その難しさを克服できるように聖霊が与えられた。彼は、私たちをすべての真理に導き入れて下さる。
2012年3月18日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.15 
みことば: コロサイ3:1-25
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.15
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.15:メッセージサマリー
こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい(コロサイ3:1−2)。
私たち、神の相続人は、「キリストとともによみがえらされた」者。それにしても、今日の私たちが、2千年年前に死んで復活されたキリストと、どのようにして、「ともによみがえらされる」ことができるのか。これが、霊の世界の現実である。真理とは、霊の世界の現実のこと。それを受け入れる所に、あなたの信仰が生まれる。
「上にあるもの」とは、霊の世界にあるもの、したがって目に見えないものだ。「地上のもの」とは、この物質の世界にあるもの、したがって目に見えるもの。どちらを思い、求めるべきなのか。これをよく学び、実行することが、大きな鍵である。さらに、霊的現実に関することばが続く。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます(3-4節)。
神の相続人は、聖書の語る、霊の世界の現実を、真の自分の現実として受け入れ、その現実の中に生きている。「キリストとともに(霊の世界に)よみがえらされた」からである。言い換えれば、この地上の現実に関して「すでに死んでおり」、その現実の中に生きているのではない。したがって、以下のような勧めが来る。
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい(5-8節)。
人は、自分の現実に正直でなくてはならない。自分の現実を曲げて話す人を嘘つきと呼ぶ。神の相続人は、正直であることがどうしても必要である。嘘つきには、真理は効力を持たない。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです(9-10節)。
神の相続人に、国境や民族の違いはない。みな、同じ神を父とする子供たちである。
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです(11節)。
神の相続人に要求されるのは、互いに愛し合うこと。イエス様の言われたことと同じだ。なぜなら、私たちはみな、父に愛された子供たちであるからだ。その現実の中に生かされているからだ。
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい(12-15節)。
表現は違っても、これらのことばが、イエス様の最後のスピーチの内容と同じであることに気がつく。父は一つ、主も一つ。そして、真理も一つ。
2012年3月11日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.14 
みことば: ヨハネ15:1-27
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.14
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.14:メッセージサマリー
子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです(ヨハネ13:33)。
ここに、13章の以下のイエス様の最後のスピーチを紐解くために注目したら良いことばがある。それは、イエス様が弟子たちのもとを離れ、いなくなられるという事実。いなくなれると言っても、目に見える形ではいなくなられるが、これからは、違う形で彼らとともにおられることになる。それを弟子たちに説明して教えようとされたのが、このイエス様のスピーチ。「イエスの名」と「聖霊」が、目に見える形でのイエス様に代わるもの。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです(14:3)。
弟子たちがいつまでもご自分とともにいること、つまり、ご自分にとどまることは、イエス様ご自身の強い願いである。それを知ることが、一つの大きな鍵である。今までおられたイエス様がいなくなれば、弟子たちですら、彼を離れ、世の中にもどって行く可能性が高い。そうなれば、神様でも何もすることができない。福音が宣べ伝えることはなく、せっかく完成された人類の救いへの道も無駄に終わってしまう。だから、それをどうしても避けなくてはならないが、そのために必要なのが、「イエスの名」に対する信仰と「聖霊」の助けである。こういったことを頭に置きながら、15章を読んでいく。
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます(15:1−2)。
「刈り込み」とは、一言で言えば、清めのこと。清くなくては、実を結ぶことはできない。そして、人が清められるのは、神のことばによる。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです(3節)。
でも、この清めを、罪の赦しのように、イエス様を信じれば自動的に起きることと考えてはならない。清めは、もうすでに「実を結ぶもの」が「もっと多く実を結ぶため」のものである。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません(4節)。
ここから、「とどまる」という言葉が何回も繰り返して使われて来る。ギリシャ語はmeno、「住む」という意味にも使われる。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます(5-6節)。
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」とまで言われた、イエス様の心中、弟子たちに対する強い願いに注目。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます(7節)。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしがあなたがたにとどまるなら」と言われるかと思うと、「...わたしのことばが...」に変わっている。なぜだろう。
2012年3月4日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.13 
みことば: ルカ19:1-28
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.13
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.13:メッセージサマリー
それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった(ルカ19:1−3)。
この話しは、ルカだけにある話しで、ルカの中のユーモラス的な要素を持つ話しの一つ。ルカの人柄もちょっと伺えるような気がする。よく楽しんで読むと良い。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた(4-6節)。
ところが、これを見ていて、イエス様のことを非難する者が多くいたようだ。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた(7節)。
そういった人々の目も全く気にせず、ザアカイは、誰からも何も言われないのに、急に立ち上がってこう言った。
主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します(8節)。
すると、イエス様は言われた。
きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです(9-10節)。
まさしく、これは、「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています(16:16)」という言葉を実証する一つの出来事だ。このザアカイも、悔い改めることによって、単なる肉にある「アブラハムの子」から、神の相続人となった。イエス様(「イエス」とは「救い」の意味)が地上に来られた目的が、この日、彼の上に成就した(「きょう、...」は、ルカ特有の言い回し)。
次に来る話しは、実は、これと文脈がつながっている。その点、イエス様が何をおっしゃりたかったのか、またルカが何を言いたかったのか、瞑想する必要がある。
人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである(11節)。
ルカが福音書と使徒の働きを書いた一つの目的は、クリスチャンの宣べ伝える「神の国」がどんなものであるのかを説明することにあった。「国」という言葉は、当時世界を統治していたローマ人にとっては非常に気になる言葉だが、クリスチャン達の語る「神の国」は、地上での、普通の意味での「国」ではない。
それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った(12-14節)。
「国」が存在する所には、それを統治する「王」がいる。王は誰で、しもべは誰で、この王に反対する人々とは誰だろうか。そして、しもべに与えられる「ミナ」とは何か、さらに、「これで商売しなさい」とはどういう意味だろうか。
2012年2月26日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.12 
みことば: ヨハネ14:1-24
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.12
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.12:メッセージサマリー
ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください(ヨハネ13:8-9)。」
これは、有名な、イエス様の洗足の話しの中におけるイエス様とペテロとの会話である。上の「関係」ということばは、ギリシャ語 でメロス(meros):「部分」、また「分け前」という意味で、文字通りには、「あなたは、わたしとともに部分を持たない」となり、これを抽象的に解釈すれば、「あなたはわたしと何の関係もありません(新改訳)」(口語訳:「あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」、新共同訳:「あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」)ということになる。しかし、それでは、ヨハネが言わんとすること、しいては、イエス様の言われたいことが伝わってこない。事実、ルカ15:12では、弟息子が、自分の父親に分けてくれるように要求した、財産の分け前の意味で使われている(他にも、同じ言葉が、ヨハネ19:23では、兵士たちが四分したイエス様の下着の分け前のこと、使徒5:2では、アナニヤとサッピラが地所を売って、自分たちのために取っておいた代金の一部(分け前)ことに使われている)。
そもそも、神の相続人が受けるべき分け前とは、人が罪によってサタンに奪われてしまったものを、キリストが奪い返すことによって、その分捕り物を私たちに与えて下さったもの。したがって、もともとは霊的なものであることを忘れてはならない。「その分け前とは何だろう?」と思いながら、読者はイエス様のスピーチを読み続けていくかたちになる。言い換えれば、その分け前について説明しているのが、ヨハネ13章以下のスピーチのテーマであるとも言える。その目で読むと、まずは、次のようなことばに注目がいく。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう (14:13-14)。
名前は、その名で呼ばれる人の存在を表すもの。イエスの名は、イエス様の存在そのものと同じである。彼は、この時、弟子たちに「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません」と言われた。つまり、弟子たちをこの地上に残して、ご自分だけが父のもとに行かれるつもりだ。残された弟子たちはどうなるのか。これが、このスピーチの的で、その答えが、「わたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう」ということだ。分るかな?誰が「それをしましょう」と言われるのか。
次に注目すべきは、以下のようなことばである。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです(16節)。
「父は...あなたがたにお与えになります」とは、これが、父の相続人が父から受け継ぐものであることを示している。そして、それは何かと言えば、イエス様に代わる「もうひとりの助け主」だ。この呼び方からも分るように、これも不在となるイエス様に代わる「もうひとりの助け主」だ。さらに、次のようにも言われた。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます(26節)。
16節の「わたしは父にお願いします」というのは、26節の「わたしの名によってお遣わしになる」ということばと同じ意味。彼が父にお願いされたから、彼がゆえに父は聖霊を私たちにお遣わしになった。これは、聖霊が、父から受け継ぐ分け前であることを示している。エリシャは同じようにして、エリヤから神の霊を受け継いだ。ヨシュアも、同じようにして、モーセから神の霊を受け継いだ。弟子たちも、イエス様から、この聖霊を受け継いだ。そして私たちも。分るかな?
2012年2月19日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.11 
みことば: ルカ11:1-13
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.11
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.11:メッセージサマリー
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい(ルカ11:1−2)...
このような出だしで紹介される、ルカの福音書での「主の祈り」だが、マタイの福音書にある「主の祈り」(マタイ6:9−13)に比べて、短く、随分素朴な感じがする。
父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。
私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください(2-4節)。
この主の祈りが終ると、すぐに次の例え話に入って行く。
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう(5-8節)。
これは例え話であることを忘れてはならない。話しそのものの中に真理があるのではなく、この話しを使って、違うレベルのことに関する真理を教えている。これは、イエス様の例え話の典型的なもので、小さいものを使って、もっと大きいものに関する真理を述べているもの。小さいものとは、この場合、パンを貸してあげた「友だち」(訪問者の「友人」ではない)。そして、大きいものは、と言えば、それは、まだ出てきていない。だから、これだけを別個の話しとして読むと、全く勘違いして読んでしまう。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます(9-10節)。
この部分、「求めなさい」が強調されているのか、「与えられます」というのが強調されているのか、読み方によって変わってくるが、どちらなのか、瞑想すると良い。そして、この短い説明が入ったあと、さらに次の例え話に進んで行く。
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう(11−12節)。
関係が、友達関係から、父と子の関係に変わった。先程のパンを求める例え話と合体して考える必要がある。小さいものを使って、大きなものを説明していることを忘れないように。そして、最後の落ちが来る。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう(13節)。
ここまで来て、初めて、友達関係の例え話が意味を持って来る。友達関係に対して、父と子の関係、さらに天の父とその子どもたちの関係へと、その比較が度合いを増し、最後のポイントが明らかにされた。それが、実は、最初の「御国が来ますように」という祈りについての教えでもある。その鍵は、聖霊にあるらしい。
2012年2月12日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.10 
みことば: ルカ16:14-31
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.10
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.10:メッセージサマリー
さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた(14節)。
イエス様が、不正の管理人の例え話を通して、不正の富をもって友を作ること、つまり、他人の益のために生きることの大切さについて弟子たちに教えておられたのを聞いていたパリサイ人たちは、彼のことをあざ笑った。自分たちこそが「光の子ら」で、「この世の子ら」のように罪人ではないと思っていたので、この例え話を聞きながら、自分を不正の管理人と結びつけて考えることはなかったはず。彼らはみな「金の好きな」金持ち。当然のことながら、この話しの中の「ある金持ち」は自分たちのこと。それでは、この例え話のポイントを完全に踏み外してしまう。彼らにとって、この不正の管理人のしたことは全くの不法であり、主人は、管理人が他人の証文を減らした分を、彼自身から取り立てるべきだ。
それに対して語られた、以下のイエス様のことばを、私たちもよく瞑想する必要がある。ともすれば、私たちクリスチャンも彼らと同じ過ちをしているかもしれない。自分をよく吟味することだ。
あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます(15節)。
彼らの生き方そのものがまちがっていた。これが単なる頭のレベルでの知識の間違いならば、それを正して直すことは簡単である。しかし、生き方のレベルの間違いを改めるためには(これを、悔い改めと呼ぶ)、謙遜さと素直さが要求される。
律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です(16-18)。
実は、パリサイ人たちの間では、離婚する者が多かったことが分っている。しかも、最初から他の女性と結婚する目的で、今の妻を離婚したケースが多かったと思われる。律法に沿って離婚状を正式に渡して離婚すれば、罪ではないと考えていたからである。上のイエス様のことばは、それが間違いであることを指摘している。
「律法と預言者」は二つの戒めにかかっている。一つは、神を愛すること、もう一つは、隣人を自分と同じように愛すること。それは、パリサイ人たちも認める真理であった。そこで、次の例え話が語られた。
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた(19-22節)。
前の例え話では、不正の管理人のしたことが、肯定的に弟子たちに適用されて、小さい事に忠実であることの大切さが語られたが、今度は、この例え話の中で、金持ちの生き方、即ち、彼がしなかったこと(ラザロを助けなかったこと)が否定的にパリサイ人たちに適用されて、教えがなされている。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません(23-24節)。』
そして決定打は次のことば。
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです(25節)。
2012年2月5日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.9 
みことば: ルカ16:1-13
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.9
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.9:メッセージサマリー
16章における、不正の管理人の例え話は、15章から始まる文脈の中で読むことが一つの鍵である。
さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された(ルカ15:1−3)。
だから、そこにいたのは、「取税人、罪人たち」、それに、イエス様を非難する「パリサイ人、律法学者たち」。もちろん、弟子たちもそこにいた。イエス様は、まず、パリサイ人と律法学者たちに向かって、失われた羊、失われた銀貨の例え話、さらに、二人の息子の例え話を語られた。そして、16章に来ると:
イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された(16:1)。
この話しは、「弟子たち」、つまり、イエス様を受け入れ、彼に従うことを決意した働き人たちに対するもの。だから、この話しがパリサイ人や律法学者たちに理解されなかったとしても、何も不思議ではない。その目でこの不正の管理人を読むと、イエス様の言われたいことがよく分る。
主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう(2-4節)。』
管理人とは、主人の持ち物を管理する人のこと。彼に任されている物は、自分のものではなく、彼には、その持ち主である主人の心に従ってそれらを管理する義務がある。管理人とは、当然のことながら、弟子たちのことで、彼らには、神の器として、神から自分たちに授けられたものを忠実に用いていくことが要求されていた。それが、まさしく、キリストと苦難(重荷)をともにしていくことである。
実は、この「管理の仕事」と訳されている言葉(oikonomia)は、パウロが自分に与えられた使徒の務めの意味で何回か使っている(参考、1コリント9:7、エペソ3:2、コロサイ1:25)。この仕事が取り上げられるとは、例え話の中では、“くびにされる”ことを意味するが、たとえ、その務めを忠実に全うしたとしても、この地上を去る時には、みな解雇される(引退する)ことになるので、その辺は、頭を柔らかくして解釈する必要がある。大事なことは、地上で私たちが所有する物の全部が、私たち自身の物ではなく、単にそれを管理するように任されているに過ぎないということ。誰もが、その仕事の会計報告を提出する時が来るということだ。その意味では、この例え話は、弟子たちだけに当てはまるのではなく、人間すべてに当てはまる。でも、ここでイエス様が勧めている生き方をすることのできるのは、神の器、キリストの弟子以外にはいないはず。だから、この例え話が「金の好きなパリサイ人たち」に理解されなかっとしても、当たり前。
さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた(14節)。
さて、あなたも笑いますか。ほとんどのクリスチャンが、10節以降のイエス様のことばにつまずく。学者たちでさえ、この箇所は、不正の管理人の例え話とは分けて、別のことを言っていると解釈する。とんでもない!
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう(10-12節)。
2012年1月29日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.8 
みことば: ルカ15:11-32
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.8
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.8:メッセージサマリー
クリスチャンなら、誰もが知っている「放蕩息子」の例え話だが、掘り下げようとすればいくらでも掘り下げることが出来る。この例え話は、今日のクリスチャンだけでなく、当時の信者たちにも愛され、何度も何度も言い伝えられて、最終的に、このようにルカの福音書に残された。この例え話を紐解くための一つの鍵は、その構造に注目することだ。全体がchiasticな構造(A, B, C, B’, A’)になっている。真ん中の折り返し点は、当然、20節。それを囲む18-19節と21節は、ほとんど同じだが、その違いに大きな意味がある。もう一つの鍵は、この話しの中に、ヒントとなる言葉が繰り返して使われていること。例えば、「畑(agros)」という言葉が、15節と、それに対比する25節に出て来る。弟息子が世話をした「豚」と、ほふられた「肥えた子牛」は、当然対比されている。さらに、日本語や英語の訳では分らないが、17節の「飢え死にしそう」という言葉と、24節、さらに最後の32節の「いなくなって」という言葉は、ギリシャ語では同じapollumiという言葉。こういったようなことは、釈義上のテクニックとして当然使われるべきことだが、なぜか、見逃されている。
ある人に息子がふたりあった。弟が父に、「お父さん。私に財産の分け前を下さい」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった(11-12節)。
聞き手の耳に、どうしても気になるのは、この父の心の内だ。下の息子にこのようにせがまれて、どんな気になっただろうか。そのことに関しては何も触れていない。その描写の「冷たさ」が非常に印象的で、それがかえって、20節に来た時に、そこに描写されている彼の行動に現される、彼の心の内にびっくり!「かわいそうに思い」という言葉が、聞き手の耳に、余計に大きな響きとなって聞こえてくるのは、そのせいである。
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした(20節)。
この時、この弟息子はどうしていたのか。彼は、父に再会するまで、その時のことをいろいろと想像しながら、ずいぶん悩み、心配して来たはず。彼は、父に抱かれ、口づけされるまま、そこに立っていたのか。これも、聞き手にとっては、非常に気になるところだが、無言のままだ。もう年を取られたはずの父ご自身が、自ら彼を見つけ、「走り寄って彼を抱き、口づけした」という。息子の行動が描写されていない分、父親の彼に対する一方的な行動が一際、引き立ってくる。「神の恵み」とはこういうことなのか、と分る。
息子は言った。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません(21節)。」
ここでやっと、息子が口を開く。注目すべきは、最後の部分。「雇い人のひとりにしてください」という言葉が欠けている。彼がそれを言おうとした瞬間、父は大きな声で、しもべたちに言った。
急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから(22-23節)。
そもそも、息子が父親の所へ帰ろうと決心したのは、まだ彼が豚の世話している時、「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ」と思ったことによる。彼が一番欲しかったのはパンであった。しかし、父親が最初に与えたのは「一番良い着物」であった。実は、イエス様は、このことに非常に大切な比喩的意味を含めて言われた。これは、ちょっと説明がいる。当時のクリスチャンたち、特にパウロ(またルカも同じ)、「着物」に関する特殊な考え方をしていたらしい。これについては、説教をどうぞ。
2012年1月22日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.7 
みことば: マタイ20:1-16
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.7
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.7:メッセージサマリー
天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった(マタイ20:1−2)。
このように始まる、デナリの労務者の例え話だが、普通どこにでもありそうな、ぶどう園を持つ主人が労務者たちに払う賃金に関する話しだ。こういった種類の例え話には、必ずハッと思う箇所が出て来る。つまり、普通の話しの中に、全然普通ではないことが起きる。普通の話しが普通の話しで終るなら、何の教えもない。だから、ハッと思う部分に注目し、イエス様が何をおっしゃりたいかをよく瞑想すると良い。ハッと思うということは、そこに、私たちがまだ知らないこと、あるいは、間違った考え方をしていることがあるからである。
それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。」彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。」彼らは言った。「だれも雇ってくれないからです。」彼は言った。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい(3-7節)。」
ここまでは、別に驚きはない。普通の出来事。ただ、これらの人たち、異なる時間に仕事をし始めたこと、特に、最後は、五時ごろから始めたということは、夕方まで、ほんの少しの時間しかない。主人が彼らに「相当のものを上げるから」とだけ言って、その金額が明らかされていないあたり、さすがだ。
もう一点注目すべきは、「何もしないでいた」とか、「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか」という言葉だ。普通、雇う側の主人にとって、自分のぶどう園での刈り取りなり、その仕事が終ることが一番の目的であって、人々が「何もしないでいた」ことを気にかける必要などない。この点、この主人は、自分のぶどう園のためというより、人々のために雇ってあげた感じだ。ここが、普通の主人と異なる。夕方五時にまだフラフラしていた人たちが、「誰も雇ってくれないからです」と言っていることから分るように、彼らはみな、人生の浮浪者であった。これは誰のことで、この主人とは誰か。
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。「労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。」そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった(8-9節)。
ここで、先程の「相当のもの」というのが「一デナリ」であったことが明らかにされる。しかも、「最後に来た者たち(あとの者)から順に、最初に来た者たち(先の者)」に賃金が払われる。これは、大変な驚きだ。普通ではない。この驚きを持ったのは、読者の私たちだけではなく、話しの中の「最初に来た者たち」も同じ。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです(10-12節)。」
この人たちの文句のことばが、読者の私たちの心を代弁している。「そうだ、そうだ。この主人はおかしい!」と、あなたの心が言っていないだろうか。その心に、神様が語りかけるかのように(主人が「そのひとり」だけに、個人的に語っていることに注目)言われた。
友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです(13-16節)。
2012年1月15日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.6 
みことば: ローマ4:13-25
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.6
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.6:メッセージサマリー
神の相続人として生きるために、絶対に必要なのが信仰である。そもそも、罪ある者であった私たちが、神の子どもになり、神の相続人とされたのは、私たちがみことばを信じて受け入れたことによったことを忘れてはいけない。何か、私たちに資格があったとか、私たちが努力や労苦をしたからではない。単なる信仰によって、神の相続人にされた。それは、神の恵みであった。そして、信仰によって相続人とされた者は、そのまま、信仰と恵みによって生きる。
そして、彼を外に連れ出して仰せられた。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」
さらに仰せられた。
「あなたの子孫はこのようになる。」
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた(創世記15:5−6)。
このみことばは、アブラハムが、子どもが与えられるという神の約束を初めて信じた時のことばである。彼には子どもがなく、しかも、もうすでに年を取っているという現実に、彼は嘆き、つぶやいて、なかなか、神の約束を信じることができなかった。できなかったと言うより、分らなかったと言う方が正しいだろう。
当時の彼らの文化では、神や天使たちのいる霊の世界とは、星の世界のことであった。この地上に現実があるように、星の世界にも別の現実がある。信仰とは、霊の世界の現実を信じること。アブラハムにとっては、星の世界の現実を信じることであった。彼は星を数えながら、その現実のことをよく考えて見た。その時、神様が「あなたの子孫はこのようになる」と言われた。「ああ、そうか!」これが、彼に初めて、信じるということがどういうことか分った瞬間であった。神の相続人としての第一歩であった。
彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした(ローマ4:18)。
「望みえないときに望みを抱く」ことを信じると言う。地上の世界での現実では「望みえない」ことが、神のことばによれば、霊の世界における現実としての「望み」となる。「望み」と夢とは違う。「望み」は、神の約束の上に立つこと、夢は単に自分の願いだけに立とうとすること。これは光と闇の違い。この違いをよく知っておくこと。
アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした(19節)。
「認めても」という言葉より前にくる部分は、みなこの世界における現実。それがどうしたというのだ。それを「認めても」の「ても」が大切。「認める」だけで終れば、何も起きない。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました(20-21節)。
「不信仰」とは、「神の約束を疑う」こと。神を信じない人や、神の約束をまだ知らない人には、不信仰は存在しない。神のことばを聞き、自分に対する神の約束を知っていながら、それを疑うことを「不信仰」と呼ぶ。神の子どもとされ、相続人でありながら、約束と恵みによらず、自分の考えと努力によって生きようとするのは、「不信仰」以外、何ものでもない。相続人は信仰によって生きる。
というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
私たちも、アブラハムのように、信仰によって義とされ、相続人としての人生が始まった。あなたの努力や行いによったのではない。ただし、律法の行いと、信仰にともなう行いを混乱して考えてはならない。律法の行いは必要のないものだが、信仰にともなう行いの方は絶対に必要である。それは、信じたみことばを実行する行いで、奇蹟を生み出すための「信仰の接点」となるものだ。ヤコブの手紙にあるように、アブラハムがイサクを捧げた(捧げようとした)行いが、その代表。このあたり、このメッセージをよく聞くと良い。
2012年1月8日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.5 
みことば: ガラテヤ4:21−31
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.5
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.5:メッセージサマリー
使徒となったパウロ‐‐私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです―および私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ(ガラテヤ1:1−2)。
ガラテヤ地方(ガラテヤでも、おそらく南部地方)の教会は、パウロの第一次伝道旅行の時に福音を聞き、建てられた教会(使徒13:13−14:26)。パウロとバルナバが、その伝道旅行からアンテオケにもどった後、使徒15章のエルサレム会議があった(ガラテヤ2:1以降は、おそらくその時のこと)。それは、あるユダヤ人たちがアンテオケに来て、異邦人も「モーセの習慣に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていたからである(使徒15:1)。これらの教師たちは、ユダヤ教に熱心なクリスチャンたちで(参考:「パリサイ派で信者になった人々(使徒15:5)」)、「割礼派の人々(ガラテヤ2:12)」と呼ばれていた。
頭に置いておくと良いのは、この手紙が書かれた当時は(A.D.50年頃)まだ、ユダヤ教とキリスト教との区別があまりなく、クリスチャンのほとんどがユダヤ人であったため、旧約聖書による伝統にそのまま従って生活をしていたこと。ところが、アンテオケ教会のように、異邦人が中心になった教会が多くできてくると、ユダヤ教の伝統を重く考えるクリスチャンたちが、異邦人の信者たちをどのように扱い、彼らとどのような関係を持っていくかということに関して、大きな問題が生じた(ユダヤ人は異邦人といっしょに食事もしなかった)。当然のことながら、ほとんどのユダヤ人の信者たちは、異邦人たちも割礼を受け、自分たちと同じ伝統を守るべきであると主張した。ガラテヤの教会も、この同じ問題の中に巻き込まれた。
私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています(1:6)。
救いは信仰による。人が神の義とされるのは、神の一方的な恵みによる。それを福音と呼ぶ。しかし、救いが律法の行いによるとすると、信仰はむなしくなり、キリストの十字架も意味がなくなる。パウロは、これに真っ向から反対した。
ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか(3:1)。
怒りにも近い、このパウロのことばに注目。彼らが、こんなにも簡単に、割礼派の人々の言葉に惑わされたのには、いくつか要因があった。その一つは、パウロが、他の使徒たちとは違って、イエス様から直接教えを受けた者ではなかったこと。彼が本当の使徒ではないとすれば、彼の伝えた福音も信頼できないものになってしまう。このあたり、ガラテヤ1章から2章の彼の言葉の中に、彼の信仰と、起きていることに対する彼の心中の苦しみがよく伝わってくる。そんな彼の書いた手紙が、誰よりも多く聖書として私たちに残されたことは、神様の計画であった。
人が義とされるのが、律法の行いによるのではなく、キリストを通しての神の恵みによるという真理を、ユダヤ人と異邦人の救いに関する、単なる宗教的な議論だと思ってはならない。私たちクリスチャンが受ける霊的祝福はもちろん、目に見える物質的な祝福や、健康の祝福なども、みな同じ真理のもとに与えられる。多くのクリスチャンが、信仰によって救われて、最初は喜び、必要も満たされ、祝福を受けていたのが、長年の間に、律法的な生き方を習い、自分を何者かのように考えて、人を見下し、律法的に裁きながら生きるようになってしまう。彼らは、パリサイ人のように、あるいは、割礼派の人々のように、単なる宗教家になってしまった。祝福を受けることがむずかしく、不信仰の中を、心配だらけで、喜びのない生活をする。神の子どもであり、相続人でありながら、与えられた特権を用いることもなく、いつも必要に追われ、奴隷のように縛られて生きる。こういったクリスチャンが、私たちの回りには本当に多くいる。かわいそうだ。
この過ちが何であるかを教えるために、パウロは、アブラハムの子、イサクとイシュマエルの例を上げて説明している。この真理を自分のものにすることは、あなたの人生に大きな転機になるはず。光と闇、命の死の違いがある。
そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです(4:22)。
2012年1月1日 説教ドリル「みことばで生まれてNo.1」 
みことば: ヤコブ1:1−27
テーマ:「みことばで生まれてNo.1」
説教ドリル「みことばで生まれてNo.1」:メッセージサマリー
神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります(ヤコブ1:1)。
この手紙の作者ヤコブとは、おそらく、イエス様の実の弟のヤコブのこと。復活なさったイエス様は、このヤコブに個人的にお現われになった(1コリント15:7)。使徒の働きによれば、エルサレムの初代教会に迫害の波が起き始めた頃から、ペテロがエルサレムを留守にすることが多くなり、このヤコブが彼に代わって、中心的な存在としてエルサレムの教会を牧会していったらしい(参考:ガラテヤ1:18−19、使徒15:13以降、21:17以降)。言うまでもなく、主の弟ということで、人々から尊敬され、使徒たちとはまた違った特殊な存在として、神に用いられたはず(参考:ガラテヤ2:11−13)。
まず、注目すべきは、主の弟でありながら、自分のことを「神と主イエス・キリストのしもべ」と呼んでいること。彼との特別な関係を自慢する所もなく、自分のことを、その「しもべ」と呼んでいることはすばらしい。
次に、非常に興味深いのは、主と同じ家族の中に生まれて育ち、兄の行動を幼い時から見て育ったヤコブは、使徒たちとはまた違った観点から真理を取られていて、それが彼の教えや説教に表れていること。私たちからすれば、イエス様という方に、ヤコブを通してより身近に接することができることになる。たとえば、ヤコブの手紙での語調が、福音書に見るイエス様の語調によく似ていることに気付くだろうか。弟としてお兄さんの行動をいつも見て育ったヤコブは、当然のことながら、兄に似てくるはず。その点、パウロが「信仰」による義を強調するなら、ヤコブは「行い」による義を強調することは、納得できる。さらに言えることは、長年、エルサレムの教会の中心的存在、またその牧師の役割を果たしてきた者として、その内容はさることながら、文章の書き方にも(それが、彼の説教の仕方でもある)、牧師としての召しからくる言い回しがよく表されている。
その一つの表れとして、この短い手紙の中には、命令形が非常に多く出てくることに気付く。しかも、それが短い単位で、次から次へと出て来るのは凄い。例えば:
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。
この中に、何回命令形が出て来るか、数えて見ると良い。これは、言うまでもなく、イエス様が命令のことばを多く語られたこととよく似ている。福音書には、彼が律法学者たちのようではなく、権威ある者のように話されたことに、人々が驚いたことが記されている(マタイ7:29)。ヤコブも同じような話し方をしたと思われる。
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(1:13-15)。
さて、今回注目して欲しいのは、この「生みます(apokue?)」という表現。同じ言葉が、すぐその後にも出て来る。
父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです(18節)。
あながたキリストに属する者であるならば、あなたは父から生まれた者である。以前は死が生きていたが、今はあなたが生きている。父が「真理のみことば」によって生んで下さったからだ。神の子どもとなったあなたは、自分の中に住む神のことば(これを「完全な律法」、「自由の律法」と呼ぶ)をしっかりと握って、そのみこころを自分のしたいこととして、みことばを実行して生きる。
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます(25節)。
2011年12月18日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.4
みことば: 創世記28:10−22
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説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.4:メッセージサマリー
神の相続人に関するシリーズの第4回目は、ヤコブのベテルでの夢の話しから学ぶ。彼は、母と協力して、父イサクをだますことによって、相続人としての権利を兄エサウから奪い取った。驚くことは、それを神様が受け入れられたという事実。エサウがその相続人の権利を軽く考え、軽蔑したからである。ヤコブは自分を憎む兄から逃げるために、遠くハランの地に住む叔父のラバンの家に行くことになった。ヤコブは、自分とその子孫が相続するはずの土地も、父の財産もすべてあとにして、一人寂しく、父母のもとから旅立った。これから、自分の人生はどうなってしまうのか、という不安いっぱいで。
ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている(創世記28:10−12)。
ここで「はしご」と訳されている言葉だが、複数の「神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」と言っていることからも、一人しか通れない幅の狭い「はしご」のようなものより、むしろ、もっと幅のある階段のようなものであったと考える方がスムーズ。しかも、その階段の裏はどうなっていたのか。階段だけが薄い紙切れのようにひらひらと浮いていたのか。これは、おそらく、創世記11章に出て来る、「天に届く塔」(考古学で発掘されている、いわゆる、zigguratと呼ばれる階段の付いた塔)に匹敵するものと考えた方が良いだろう。ただ、11章のバベルの塔は、人間たちが地上から天に向かって作ったものだが、ここでは、天から地上に向かって立っていったという点が違う(実は、これは大きな違い)。ヤコブは、夜空に輝く星を見ながら眠りに入った。すると、その空から、大きな塔のようなものが下りて来て(それには階段が付いていた)、地に届いたと思うと、空の星たちが、無数の天使たちに代わり、その階段から下りて来ては、また上って行ったりしていた。星は、彼らの文化では、霊の世界で神に仕える天使なる存在の意味。
そして、見よ。主が彼のかたわらに(あるいは、階段の上に)立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
この主のことばは、ヤコブが神の相続人になったことを示している。注目すると良いのは、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」ということば。それは、彼が、その時一番悩んでいたことに対する神様のことばであった。大事なのは、主は、ヤコブが「どこへ行っても」彼とともにおられるという事実。
ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。
確かに、彼が再びこの場所にもどってくる(35章)という約束においては、この「ベテル(神の家の意味)」は特別だが、主は、ヤコブとともに行かれず、「この場所」に待っておられたという意味だろうか。先程、主は、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても...」と言われたばかりだ。実は、それこそ、このあと、ヤコブが神からの訓練を受けて学んでいった真理であった。
(この箇所に関しては、2012年1月11日に行なわれた水曜日の聖書の学びで(出エジプト記36章、No.3)、創世記11章のバベルの塔の話しやイザヤ2:2−3との関連で解き明かしをしているので、興味のある人は、その日の説教をお聞き下さい。)
2011年12月11日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.3
みことば: ヘブル12:12−29
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説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.3:メッセージサマリー
ヘブル人の手紙12章の前半は、主の懲らしめに関する箇所。懲らしめといっても、神があなたの罪を罰して苦しめることを言っているのではない。苦しみはサタンからくるもの。イエス・キリストにあって神の義とされた私たちには、神のさばきはもうない。神の怒りは過ぎ去った。それによって、私たちは神の子どもとなり、約束の相続人となった。子どもはみな、自分の父にならい、父に似た者となる。父が聖であるならば、子どもも聖でなければならない。神が愛ならば、神の子どもは互いに愛し合う者である。ここでいう懲らしめとは、霊の父が、愛する子どもたちに、ご自分の品性にあずからせるための訓練のことである。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです(ヘブル12:10)。
これをよく理解することが秘訣。言い換えれば、子どもとされた私たちが、相続人としての祝福や特権にあずかることができるように、もっと言えば、この世界に対して祝福となり、私たちを通して世界が祝福されるように、神様は私たちを訓練される。アブラハムやヤコブが受けた訓練と同じである。それは、愛されるがゆえに受ける訓練であり、神の子ども、即ち、世界の相続人として、当然受けるべき訓練である。だから、この手紙の作者は次のように私たちを励ましている。
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです(12-13)。
「弱った手と衰えた膝とを、まっすぐに」することは、あなたが自分ですること。同じ訓練を受けた多くの過去の証人たちが、あなたがそこから立ち上がり、このレースを走り続け、あなたのために準備された栄冠を勝ち取ることを期待して応援している(12:1-2参照)。
「あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい」とは、悔い改めのことを指す。悔い改めを、単に罪からの悔い改めの意味だけに理解してはならない。悔い改めとは心の思いや考え方の変化によって、生き方が変わることである。言い換えれば、心の一新によって自分を変えること。ここで言う神の懲らしめとは、みことばをもってあなたを内側から変えることを指している。内側が変われば、行動や生き方も自ずと変わる。したがって、自分の悪い考えや不信仰の思いが、みことばによって責められる形になるので、その時は、決して喜ばしいものではない。しかし、自分に指摘されたことを素直に受け入れ、間違いを間違いとして認めて、自分を変える者は、義の道を歩むことができる。しかし、その懲らしめに反発して受け入れなければ、「なえた足が関節をはず」して、ついにレースから脱落することになる。だから、そうならないように、むしろ、なえた足が「いやされるため」に、しっかりと自分を変えなさい、と言っている。
実は、ここで「いやされるため」と言っているのには、ちょっと訳がある。その次のことばを読むと:
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません(14節)。
「すべての人との平和を追い求め」るとは、互いに愛し合うことである。それを聖さと言う。赦さない心、愛さない心は、汚れであり、罪である。これは、決して、前の部分から話題が変わって、新しいことを言っているのではない。事実、「聖められることを追い求めなさい」とは、その前の10節で霊の父は「私たちをご自分の聖さにあるからせようとして」ということばとつながっている。
この続きは、2011年の冬の聖書セミナー「愛は、、、」において詳しく学んだ。今の新約の時代は、律法の全体が、隣人を自分と同じように愛することにかかっている。それは、イエス様が、最後の晩餐の時に、弟子たちにお与えになった、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい戒めと同じ。興味のある人は、聖書セミナーでの説教を聞かれることを勧める。
2011年12月4日 説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.2
みことば: 創世記18
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.2
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.2:メッセージサマリー
主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた(創世記18:1)。
言うまでもなく、「主」とは「ヤーベ」の神のこと。その神がアブラハムに「現われた」という表現で始まるこの話しは、その始まりから読者をハッと思わせる。この場合の「現われた」とは、夢や幻の中で現われたという意味ではなく、実際に体をもって、人間のように現われたということ。この前置きがあるがゆえに、この後、22節に出てくる表現の凄さが増し加えられる形になる。
その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた(22節)。
実は、「アブラハムはまだ、主の前に立っていた」という部分に関して、マソラ学者による注によると、本来は、以下のように「主(ヤーベ)」が主語となっていたのが訂正されて、上のような文章にされたという。
その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行ったが、主はまだ、アブラハムの前に立っておられた(22節)。
これは、いわゆるtiqqune sopherimと呼ばれる訂正のことで、神である主が、「アブラハムの前に立っていた」などと言うことは、あまりにも神を低く見ることになってしまうので、神をもっと尊敬する表現に変えたことを示す。実は、ヘブル語の「立っていた(’amad)」という動詞が、相手に仕える意味で立っていること(ちょうど英語のattendの意味)を指すので、神がアブラハムに仕えるように立っていることになり、彼らの常識からして、それは許せない表現であったことによる訂正であった。
でも、そこに凄い真理があることに気が付く。まさしく、ヤーベの神がアブラハムの言うことを聞き入れるために、彼に仕えるかのようにして、彼の前に立っておられたのである。ソドムの破壊に関して、彼に相談し、彼が何と言ってくるのか、その言葉によって、神ご自身がご自分の決定を変えようとして待っておられる姿である。作者は、17節で、既に次のように述べている。
主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか(17節)。...
これが、神様の、相続人に対する見方である。おもしろいことに、これは対象的に、アブラハム自身は自分のことを次のように呼んでいる。
私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください(27節)。
このアブラハムの言葉が、先程の「主はまだ、アブラハムの前に立っておられた」という表現を一層際立ったものにしている。
このアブラハムの話しで、神の相続人ということに関して、注目したら良いのは、ロトとの比較である。19章におけるロトの態度は、明らかにアブラハムのものと比較されて描写されている。まず、3人の訪問者に対するアブラハムのもてなし方と、ソドムに訪問した二人の御使いに対するもてなし方には、二人の性格の違いなどが示されている。ロトも彼らをもてなしたという点では、そのテストに合格したと言える。でも、ソドムの破壊に関する啓示の仕方、さらに、その啓示に対する対処の仕方においては、相続人であるアブラハムと、そうでないロトとの違いが大きく出ている。このあたり、よく瞑想すると良い。
夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。----主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた(19:15-16)。
2011年11月27日 説教ドリル「神の偉大なるヘセド」
みことば: 詩篇23
テーマ:「神の偉大なるヘセド」
説教ドリル「神の偉大なるヘセド」:メッセージサマリー
1. 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2. 主(彼)は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3. 主(彼)は私のたましいを生き返らせ、御名(彼の名)のために、私を義の道に導かれます。
4. たとい、(私が)死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5. 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6. まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
さて今回は、詩篇23篇の解き明かしをした。この詩篇は、多くのクリスチャンに愛されて、よく口ずさまれる詩篇だが、意外にも、聖書のどこにも引用されていない。
詩篇を解析するコツは、まず、区切りになる部分を見つけること。これは、劇で言えば、幕やシーンの変わり、音楽で言えば、楽章の変わりか、調の変わり。多くの場合、その区切りの鍵になるような言葉がある。こういったことは、原語のまま読むのがベストだが、訳の中でも、それを見つけることができる。上の場合は、4節の「たとい...(gam ki)」というのと、6節の「まことに...(‘ah)」である。これらの接続的な言葉は、発音の上でもひときわ目立つ。
したがって、1)1−3節、2)4−5節、3)6節の三つの部分に分けられる。そこで、それぞれの部分の内容に注目すると、1)の部分は、「主(Yahweh)」という言葉から始まり、神様という方が自分にしてくれることを第三者的に告白していることになる(2-3節の「主」は、本当は第3人称の「彼」)。ところが2)の部分に入ると、いきなり、「死の陰の谷」というような暗い言葉が飛び込んで来る。今までの第三者的な「主」が、より直接的な「あなた」に変わり、作者が神様に向かって、「私」と「あなた」という形で語っている。音楽で言えば、この部分は短調で劇的な感じになる。そして、3)の部分に来ると、最初の「主(Yahweh)」という呼び方にもどって、「主の家に住まいましょう」と言って詩を閉じている。こういった詩は、実際には何かのメロディーに合わせて歌われたはずだが、残念ながら、そのメロディーがどんなものであったかを知る術はない。
あと、聞き手の耳に注意を引くのは、「私は、、、ません(lo’ ‘e/i…)」という表現。1節の、「私は、乏しいことがありません」と、4節の「私はわざわいを恐れません」という表現のこと。それに、4節冒頭の、「たとえ、私が...歩くことがあっても」の第一人称の動詞(’eleh)も加えることができる。それら一人称の動詞に対して、耳に強く入って来るのが、「あなたが私とともにおられますから」の「あなた(’attah)」という代名詞と「ともにおられます(’immadi)」という前置詞。これが、この歌の頂点という感じ。そして、最後に行くと、これら第一人称imperfectの動詞が、「私は、...住まいましょう」converted perfectの形(weshabti)で締めくくられている。 この動詞は、伝統的に「住みましょう」と訳されるが、本当は「もどる」という意味の動詞(3節の「生き返らせ」と同じ動詞)。おそらく、羊が、習慣的に羊の囲いにもどることを指す。
この詩の中には、「羊飼い」、「義の道」といった、聖書の他の箇所でもよくテーマとして使われていることばがあるから、それを調べていくと良い。その中で、よく誤解されて解釈されるのが「むち」と「杖」。この日本語の訳からセンスするのは、神様がこの「むち」と「杖」によって、私たちをたたいて懲らしめるのだという考え。確かに、神様は私たちが悪い道に行かないように、罪を指摘し、悔い改めへと導いて下さる。そして、それらが私たちの「慰め」であるとも言えるが、実は、羊飼いの杖は、羊を野獣たちから守り、牧場へと導くためのものである。その意味で、それらが「慰め」である。しかも、それを頭に置くと、次の「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、...」ということがよく分かって来る。聖書の中での「食事」は契約のシンボル。イエス様による最後の晩餐も食事であった。それは、人間が神のために捧げた食事ではなくて、神が私たちのためにととのえて下さった「食事」であった。まことに、神の「いつくしみと恵み(ヘセド)」は、私たちがそれらを追い求めなくても、それらの方が私たちを追ってくる。
2011年11月20日 説教ドリル ドリル「キリストとの共同相続人」No.1
みことば: 創世記11:27−13:18
テーマ:「キリストとの共同相続人」No.1
説教ドリル「キリストとの共同相続人」No.1」:メッセージサマリー
これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名は...サライは不妊の女で、子どもがなかった(創世11:27−30)。
「これはテラの歴史である」というのは、いわゆるToledoth Formulaと呼ばれるもの。「歴史」と訳されている言葉がトルドス、文字通りは系図の意味。創世記には、こういった表現が11回出て来る。聖書に系図がたくさんあることは、聖書を読み始めるとすぐに気が付く。有名なのは、マタイの福音書の冒頭やルカ3章にイエス・キリストの系図、旧約聖書では、1歴代誌の最初の9章にあるイスラエル全体の系図。読者にとっては、系図ほど退屈なものはない。なぜ聖書は、そんなに系図を載せているのか。どういう意味があるのか。
系図は「だれがだれを生み...」という、その人や家の先祖からの系統を表したもの。今の自分がどこから来たのかを示すことによって、そのアイデンティティーを明らかにするもの。現代の社会では、所属する学校や会社、受けた教育や訓練、学歴や職歴などがそれに代わるもの。この違いは、価値観や考え方の違いによる。この点を理解することが、聖書を理解するのに大きな鍵となる。聖書における系図の裏に流れている大切な考え方は、契約と、それに伴う約束や祝福の相続である。マタイの福音書は、次のような始まり方をしている。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図 (マタイ1:1)。
これは、イエス・キリストがアブラハムの契約、またダビデの契約の相続者として生まれて来られたことを示す。それは、旧約聖書の中で神がアブラハムやダビデに約束されたことが、キリストの生涯において成就されたことを意味する。それに対して、ルカの福音書の系図は次のように終っている。
… エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である(ルカ3:38)。
キリストも、私たちと同じようにへそを持った赤ん坊として、女からお生まれになった。ひとり子の神が、アダムの契約の下に、「神の子」の子孫としてこの地上に来られた。ルカは、マタイとは、また違った点に目を付けて福音書を書いた。
聖書によれば、キリストを受け入れた者はみな、神の相続人であり、キリストとの共同相続人であるという。それは、霊的な意味での「神の子ども」としての身分や権利のことを問題としている。ところが、創世記に見るような系図はみな、肉にある血のつながりとしての系図である。その違いは当然無視できない。したがって、私たちにとっては、これらの系図や話しは、歴史的事実に基づいた比喩だと理解するといい。言い換えれば、神の契約の相続というものがどんなもので、そこに約束されている祝福や特権がどんなものであるかということを私たちが知るためには、これらのアブラハム、イサク、そしてヤコブの話しは大変に役に立つ。特に、系図という、現代人には薄れてしまっている価値観や考え方が基盤になっているので、これらの話しを通して、まずその考え方に慣れる必要がある。その上で、そこに含まれている真理を探り出していくと、そこに、今の私たちの生活に適用できる多くの隠された真理を発見する。
上の系図の中には、「サライは不妊の女で、子どもがなかった」という注が入っている。このまま行けば、系図がそこで止まってしまう。子どもとは相続人のこと。このあたり、神様は、人間的に言えば、アブラムにとっては、完全に不利、また絶望的なケースを使って、ご自分の契約の相続人、この物質の世界を越えた所の祝福や特権に関して、アブラハムとその子孫、さらに、今日聖書を読む私たちにも教えようとなさっている。主はアブラムに言われた。
あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたは祝福となりなさい。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世12:1-3)。
これらのことばは、このあとのアブラハムの生涯、またイサクやヤコブの生涯において成就されていくが、いったいどういう意味があるのだろうか。
過去の日曜4時メッセージシリーズ
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