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メッセージシリーズ:     “キリストとの共同相続人”

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8:17)

2012年4月14日    “キリストとの共同相続人” No.19    1ペテロ1:3-4、ヨハネ6:27、マタイ13:44-46、ヨハネ17章など


2012年4月14日   “キリストとの共同相続人” No.19   浅井導牧師 mp3      


私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです(1ペテロ1:3−4)

この世の資産もあれば、霊の世界の資産もある。人はみな、この世で目に見える資産を欲しがる。富や地位を求めて労し、一生懸命働く。それに価値を見つけるからである。同様に、霊の世界においても、霊たちが盛んに求める資産というものがある。それに価値を見つけるからである。彼らには、地上の資産は全く価値のないもの。そんなものには関心すらない。逆に、霊的に死んだ地上の人間たちは、霊的な資産や祝福といったものがあることも知らずに生きている。その存在を知らなかったら、それを求めることは絶対にない。上のみことばは、私たち相続人が、神の恵みによって、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」を受け継ぐ者とされたことを教えている。

そもそも、人間たちは、その創造の初めから、このような霊的資産を持つ者として生まれた。しかし、その資産も、罪によってサタンに奪い取られてしまった。そして、キリストは、その資産をサタンから奪い返し、もう一度人間たちに与えるために、この地上に来られ、十字架で死んで復活された。よく知っておいたら良いのは、そもそも、人の持っていた資産を、どうしてサタンがそんなに欲しがったのかということだ。その資産には、そんなに大きな価値があったということだ。

ところが、霊的に死んでしまった人間たちにとっての問題は、そのような「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」というものがあることも知らず、目に見える地上の資産がすべてであるかのようにして生きていることだ。地上の資産は、朽ちる、汚れた、やがて消えてしまう資産である。イエス様は、5千人に食をお与えになった後、ご自分について来ようとした人々に、次のように言われた。

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです(ヨハネ6:27)。

「なくなる食物」「永遠のいのちに至る食物」がある。問題は、どちらの食物のために労するかということ。なくなる食物のために働いても、残るものはない。永遠に生きる者にとって、なくなる物は偽物で、本物はいつまでも残る。サタンは偽り者で、人を騙すことが上手。偽物のために働くことが美徳であると思わせている。人は、本物を見分ける目を失ってしまった。

天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます(マタイ13:44−46)。

この宝の値うちを知った者は幸いである。この真珠の価値を少しでも認める人は幸いである。それは、ひとり子の神が、人となり、そのために死なれたほど価値あるものである。しかし、それがどんなに価値あるものであっても、その価値を認めない者にとっては、単なる石ころと同じだ。要は、その価値を知り、それを見抜く目を養うことだ。

その目を持って、ヨハネ13章以下のイエス様の最後のスピーチのことばをよく読み直してみることを勧める。次の日には、もう目に見える形では存在されなくなるイエス様が、弟子たちに語られた最後のスピーチである。その語られることばの一つ一つに、目に見えないもの、すなわち、ペテロの言う「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」に対するイエス様の思いが、ひしひしと伝わって来る。それが現実でなかったら、彼の死と復活は、何の意味もないものになってしまう。

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです(ヨハネ17:1−2)。


2012年4月7日    “わたしも生きる”(復活祭)    ローマ10:9、ヨハネ20:1−18、1コリント6:16−17など

2012年4月7日   「わたしも生きる」   浅井導牧師 mp3      


なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです(ローマ10:9)。

クリスチャンはみな、イエス様が死からよみがえられたことを信じる者である。十字架での死だけでとどまっているのはクリスチャンではない。イエス様は言われた。

いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります(ヨハネ14:19−20)。

復活とは、世の終わりに死人が生き返ることだけを言っているのではない。復活は現実である。キリストは今生きておられる。キリストが今生きておられるならば、私たちも今生きている。この信仰は非常に大切。そもそも、救いは、すべてキリストを通して受けるもの。キリストが私たちと一体となって、十字架にかかり、私たちの罪を負い、私たちの身代わりになって死んで下さった。それによって、キリストの義が、私たちの義となった。キリストのいのちが、私たちのものとなった。救いは、すべて、キリストと私たちが一体になることによって、私たちに与えられる。従って、あなたの中に、自分がキリストと一体になったものだという信仰がなければ、救いはあなたのものとはならない。

ローマ6章のみことばは、まさにその真理を教えている。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです(ローマ6:3-4)。

イエス様も、この地上におられた時、ご自分が父と一つであることを、いろんな表現でもって語られた。彼の語られたことばは、父が語られたことばであり、彼がなさった業は、父がなさった業であった。父が働かれるならば、イエス様も働かれる。父がいのちをお与えになるならば、イエス様も与えたいと思う者にいのちをお与えになる。イエス様を見る者は、父を見る者。

同様に、私たちもキリストと一つである。そして、キリストが父と一つならば、私たちも父と一つである。人間が神と一つになることを不思議に思ってはならない。それは、高ぶりでも何でもない。父ご自身が、それを望んでおられる。そもそも、人間は神のかたちに、神に似せて造られた。もし、私たちが神のようでありたいと願うことが罪であるなら、なぜ、神様はご自分のかたちに人を造られたのか。新約聖書には、次のようなことばがある。

遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです(1コリント6:17−17)。

神を信じ、神を愛し、神を礼拝する者は、神と一つ霊になるのである。言うなれば、三位一体の中に、私たちも組入られる形になる。イエス様は、次のように父に祈られた。

それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです(ヨハネ17:21)。

父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです(24節)。

キリストが父の右の座で支配されるならば、私たちも支配する。キリストが生きておられるので、私たちも生きている。当然だ。


2012年4月5日    “グッド・フライデー・イヴ・メッセージ” 「イエスの着物」    ヨハネ19:23−24、創世記3:21、ガラテヤ3:27など

2012年4月5日   ”グッド・フライデー・イヴ・メッセージ” 「イエスの着物」   浅井導牧師 mp3      


さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるよう四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた」という聖書が成就するためであった(ヨハネ19:23−24)。

イエス様は、真っ裸で十字架に付けられた。ここには恐るべき真理が隠されている。イエス様がこの地上で受けられた苦しみのすべてが、何らかの形で人間たちを贖うためのものであった。贖いとは、人がサタンに支配される者になってしまった状態から、もう一度神の支配の中に入れられ、今度は、自分たちがサタンを支配する立場に変えられたことを指す。それを、ただ単に、キリストの十字架での死のみのよると考えてはいけない。キリストが貧しくなられたのは、私たちが貧乏から贖われて豊になるため、キリストが打ち傷を受けられたのは、私たちがすべての病から贖われて健康であるためであった。そして、上のみことばによれば、彼が裸で死なれたのも、私たちを何らかの形で贖うためのものであったらしい。

ヨハネは、イエス様の着ておられた着物について、他の福音書よりも詳しく描写している。それは、ヨハネがそこに大きな真理を見つけたからである。実は、上の「四分した」という言葉は、文字どおりでは、「四つの分け前にした」という表現で、13章の所で、イエス様がペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたにはわたしと何の分け前もありません(13:8)」と語られた時の「分け前(メロス)」という言葉とギリシャ語が同じ。要するに、この着物が、弟子たちに与えられた分け前であったことを比喩的に示している。

聖書の中に、人の着る着物のことが良く出てくる。創世記の最初の所に、人が罪を犯す前は、「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった(2:25)」ことが記されている。それは、彼らが神から与えられた霊的な着物を着ていたからである。肉の目で見える着物もあれば、霊の世界に生きる者たちの着る着物もある。彼らにとっても,裸は「恥ずかしい」ことである。人は、罪を犯した後、自分たちが裸であることを知り、その恥ずかしさをおおうために、いちじくの葉をつづり合わせてそれを隠そうとした。人間たちは、罪の結果、それまで着ていた霊的な着物を脱がされたようだ。そして、神様は、人がそのように惨めな姿になってしまったのをご覧になって、次のようになさった。

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった(創世記3:21)。

新約聖書には、次のようなみことばがある。

主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません(ローマ13:14)。

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです(ガラテヤ3:27)。

「キリストを着る」とはどういうことか。私たち体を持つ者にとって、キリストというお方を着るという表現はちょっとピンと来ない。キリストは私たちの内に住まれるお方であって、なぜキリストが着物になってしまうのか。着物は外側のもので、内側の方が大切ではないか。

私たち、物質の世界に住む者がその目で見ると、まずその外側の着物があって、その中に体があるのが見え、その中に魂、さらに一番内側に霊があるというように考える。イエス様はその霊の部分に住んでおられる。確かにこれが真理だ。ところが、霊の世界に住む者にとっては、全部がひっくり返って見えるはず。自分が、人の霊の中に入って、そこから人間を見たとしたら、どのように見えるのか、想像してみると良い。まず、一番外側に、霊がその人をおおっているように見える。その内側に魂があり、さらにその奥に体がある。彼らにとっては、物質の世界にある体が一番遠くに見えるはず。分るかな?

ですから、私たちにとってのキリストの内住は、霊の世界にいる者からすれば、キリストを一番外側に着ていることになる。それは、アダムとエバが失ってしまった霊的な着物を再び奪い返した形になる。キリストは、そのためにこそ、裸になって十字架の上で死んで下さったのだ。


2012年3月31日    “キリストとの共同相続人” No.18    1列王8:27-30、出エジプト17:8−16、ヨハネ2:1-11、など

2012年3月31日   ”キリストとの共同相続人” No.18   浅井導牧師 mp3      


私たちが神の相続人、キリストとの共同相続人として受けるものは、単純に言えば、イエスの御名と聖霊と考えて良い。それが、ヨハネ13章以下のイエス様の最後のスピーチのテーマである。この二つをしっかりと自分のものとして受け取り、その特権のすばらしさを知ることが肝心。つまり、私たちの心の目がはっきりと見えるようになって、私たちの受け継ぐものがどんな偉大なものであるかを知る必要がある。どんなにすばらしいものであっても、それが何であるかを知らなくては、感謝もなく、それを用いようとしないからである。

イエスの御名が私たちに与えられていることは、旧約において、神殿に主の名が置かれていたのと同じと考えて良い。

そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください(1列王8:29)。

もともと、天地創造の神が、人の作った神殿などにお住みになることはない。ソロモンもそれをよく知っていた。上のことばは、神殿を建て終わったソロモンが、神様に祈ったことば。神殿のことを「『わたしの名をそこに置く』と仰せられたこの所」と呼んでいる。これが、神殿の意味である。そこで祈る祈りとは、その名によって祈る祈りのこと。これは、ちょうど、私たち相続人がイエスの名によって祈り求めることと同じ。私たちには、イエスの名が置かれている。私たちは生ける神の宮である。だから、その私たちがイエスの名によって祈る祈りは聞かれる。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も求めません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしの名によって父に求めることは何でも、父は、それをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです(ヨハネ16:23−24、私訳)。

したがって、私たち相続人にイエスの名が置かれたことは、私たちが神の神殿となったことと同じ。そして、そのためにこそ、聖霊が私たちに与えられた。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい(1コリント6:19−20)。

この二つの点が、私たち神の相続人の一番大切な特徴であり、特権と言える。クリスチャンたちが、同じ神を信じるユダヤ人らと異なるのはこの点で、それがゆえに、初代教会のクリスチャンはユダヤ人から迫害された。

聖霊なる存在が私たちを助けるために与えられていることと、その働きに関しては、ヨハネの福音書における「イエスの母」に注目すると良い。ヨハネは、イエス様の母であるマリヤのことを名指しで呼ぶことをわざと避けたが、それには理由があった。

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください(ヨハネ2:1−5)。」

ご存知の通り、マリヤは、イエス様の指示で、彼の死のあと、ヨハネの母となった。ヨハネが、そのマリヤなる存在に注目したのは当然である。その後、ヨハネはマリヤから、それまで知らなかったイエス様の側面をたくさん学んだはず。上のみことばでは、マリヤがその場にいた手伝いの人たちに、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と言って助けている。この辺、聖霊が私たちを助けて下さるのとよく似ている。


2012年3月24日    “キリストとの共同相続人” No.17    ヨハネ13-16など

2012年3月24日   ”キリストとの共同相続人” No.17   浅井導牧師 mp3      


ヨハネ13章以降のイエス様の最後のスピーチを紐解くために一つの助けになるのは、イエス様がこの地上を去られるという事実に注目すること。去られるとは、肉体をもってこの地上に存在なさることを止めるということ。でも、いなくなられる訳ではない。その後も、弟子たちとともにおられたし、今も私たちとともにおられる。決して私たちを見捨てられることはない。彼は、一度は死んでも、生きておられる。見えなくなっても見える。いなくなってもおられる。私たちは永遠にイエス様とともにいる。彼を離れることはなく、離れては何もすることができない。その真理をどのようにして弟子たちに教えるのか。この箇所は、そのようにイエス様の立場になって読むと良い。

今、ご自分がいなくなることを語られた、以下のようなイエス様の表現に注目してみよう。幾つかの種類があることに気が付く。まずは、以下のようなもの。

子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです(13:33)。

シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます(36節)。」

「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と言われただけで、どこに行かれるかを述べておられない。弟子たちは、この時点では、彼がどこかの遠い国とか町へ行かれるように思ったはず。ところが、しばらく進んでいくと、イエス様は以下のように言われた。

いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです(14:19)。

ここでは、どこかに行くという表現が、「世はもうわたしを見なくなる」という表現に変わっている。「見なくなる」とは、どういうことか。この辺から、弟子たちにも、イエス様がどこかの国や町に行かれるのではないことが分ってくる。「あなたがたはわたしを見ます」とは、復活を意味することを私たちは知っている−−「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」。しかし、この時の弟子たちには、ますますなぞに思えたことだろう。誰もあえて質問することはなかった。質問するのが怖かったからである。そして、イエス様はついに言われた。

『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです(28節)。

「わたしが父のもとに行く」とは、どういう形であろうと、この地上を去ることを意味する。その直前に、「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と言われている所など、何とも言えない。

この後、15章のぶどうの木の話しに入っていく。「わたしにとどまりなさい」ということばが連発する。それは、弟子たちが実を結ぶためである。この目的のためにこそ、彼らは選ばれた。この辺が、このスピーチの中心になるがそれを挟む形で、「互いに愛し合いなさい」という戒めが2回繰り返される。この間、弟子たちはまだ無言のままで、16章に入ると、イエス様が弟子たちの様子を伺うようにして言われた。

しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません(16:5)。

最初の「どこかに行く」ということばがもどって来る。彼らが、初めの時に「どこにおいでになるのですか」と質問したが、この時にはもうはっきりとその答えが与えられていた。だから、誰もさらに質問する者はいなかった。というよりも、何をどう質問したら良いのか分らなかった。スピーチはさらに、後半に入っていくが、それは聖霊とイエスの名に関する教えの第2段である。


2012年3月17日    “キリストとの共同相続人” No.16    ローマ8:16-17、1列王記8:27−29、ヨハネ13-16など

2012年3月17日   ”キリストとの共同相続人” No.16   浅井導牧師 mp3      


神の相続人、キリストとの共同相続人には、神の子どもとして、キリストを通して父から与えられる「分け前」がある。自分に与えられた「分け前」が何であるかを知らなくては、それを使って、神の子どもとして、また、相続人として歩むことはむずかしい。その「分け前」とは、イエスの名と聖霊のパッケージである。実は、イエスの名の使い方には、二つの種類がある。以下は、イエス様が「わたしの名によって」求めることについて述べられたことばであるが、この二つをよく比べてみると良い。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう(ヨハネ14:13−14)。

あなたがたがわたしを選んだのではありません...また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです(15:16)。

最初のは、私たちが、イエスの名によって、イエス様に求めると、イエス様がそれをして下さるという約束。2番目のは、イエスの名によって、父なる神様に求めると、父がそれを与えて下さるという約束。同じではない。最初のは、イエス様に願い求めると言うより、環境に向かってイエスの名で直接宣言することを指す。そうでないと、イエス様ご本人に、イエスの名でお願いするとは、ちょっと変だ。私たちが普通神様に祈り求める祈りは、2番目の部類に入る。この種の求め方に関しては、さらに次のように言われた。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります23節)。

実は、この日本語新改訳の訳は、間違いとは言えないが、ちょっと変。これは、以下のように直すと良い。下線の部分に注目。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も求めません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしの名によって父に求めることは何でも、父はそれをあなたがたにお与えになります23節)。

ここは、質問をする意味の「尋ねません」ではなく、求めることを言っているので、「求めません」とすべき。それと、「わたしの名によって」ということばの位置(修飾する言葉の違い)がおかしい。私たちが求めるのは、イエスの名による。もちろん、イエスの名によって求めるものが、同じイエスの名によって与えられることは確かだが。

新改訳がこのように訳しているのは、先程すでに、14:13-14で、イエスの名によってイエス様ご自身に求めることが勧められているのに、ここに至って「もはや、わたしに何も求めません」というのは、辻褄が合わないと考えたからかもしれない。しかし、注意すべきは、上に説明したように、イエス様の頭の中では、イエスの名によってイエス様に求める求め方と、同じイエスの名によって父に求める求め方は同じではないこと。イエス様がこの地上におられた間、弟子たちは、何かがあると、イエス様ご自身に求め、彼が彼らに代わって父なる神に願うという形でかなえられた。というのは、弟子たちがまだ父を完全に知らず、直接父に求めるということをしたことがなかったからである。イエス様は続けて言われた。

あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです(24節)。

ここでの「求める」とは、その直前で言われた、父に求めることの意味。この種類の求め方は、弟子たちもそれまでしたことがなかった。実は、最初の方の求め方、すなわち、直接イエスの名によって悪霊を追い出したり、病人をいやしたりすることは、彼らもすでにしたことがあった(ルカ9:49、10:17参照)。さらに続けて、彼は言われた。

その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません(26節)。


2012年3月10日    “キリストとの共同相続人” No.15    1ヨハネ4:13、コロサイ3:13-17、ヨハネ15など

2012年3月10日   ”キリストとの共同相続人” No.15   浅井導牧師 mp3      


神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります(1ヨハネ4:13)。

「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられる」とは、私たちと神とが一体になったことを指す。ここでの「わかります」は、「知っています」の意味。知っているとは、もうすでにそれが現実になったことを指す。そして、私たちに与えられた聖霊がその証拠だという。神様ご自身が人間たちと一つになりたいと願っておられるとは、驚くべき真理。そうならば、私たちと一つとなられた愛なる神に習い、私たちも互いに愛し合うことは、当然要求されるはず。それが新しい戒めの意味。目的は、私たちが神と一体となるためであり、そのために私たちに「イエスの名」と「聖霊」が与えられ、互いに愛し合うことは、絶対に必要な条件である。

コロサイ人の手紙の3章に次のような箇所がある。

13. 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
14. そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
15. キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
16. キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
17. あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい(コロサイ3:13-17)。

下線を引いた三つのポイントに注目。最後の「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし(17節)」というのが最終的な結論であるならば、そこに至る前の、二つのポイント、つまり、1)「互いに赦し合い...互いに赦し合うこと...(13-14節)」、そして、2)「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせること(16節)」というのは、「すべて主イエスの名によってなす」ための大切な条件である。

1)は、「互いに愛し合いなさい」と同じ。愛し合うことは赦し合うこと。教会といえども、私たちの中にまだ罪の性質が残る限り、人間関係の問題は起きる。互いに誤解したり、傷つけ合ったりする。もちろん、本当は、そうあるべきではない。キリストにある者は、そのすべての罪が赦され、すでに完全に神の義とされたが、その性格や考え方の中にしみ込んだ罪の性質はまだ残っている。この罪の性質からの清めは、一晩の間に起きることではない。私たちの霊の父が愛する子どもたちを訓練なさる(「懲らしめ」とも訳されている)とは、この清めのことで、それはご自分の聖さにあずからせるためのものである。これを他の言い方で、父の「刈り込み」という。

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます(ヨハネ15:1−2)。

「刈り込み」は、無駄な枝を切ること。何かを余分に足したり、加えたりすることではなく、邪魔になるものを切り捨てることである。より多くの実を結ぶためである。これは、枝のレベルに合わせて、実を結ぶ可能性のある枝になされること。罪の赦しとは異なる。イエス様が弟子たちの足を洗われた時、「足以外は洗う必要がありません」と言われたこととつながっている。分り易く言えば、からだ全体を洗うことは罪の赦し、しかし、足を洗うことは清め。足は、歩けば汚れる。清め続けられる必要があるし、互いに足を洗い続けることが必要。

最初に述べたように、イエスの名は、私たちとイエス様を一体化させるためのもので、聖霊は、それを助けて下さる助け手である。 その結果、私たちはこの地上で実を結ぶ。神様は人間たちが実を結び、その実を収穫することを何よりも望んでおられる。蒔かれた種は、土地が良くて水を充分に与えさえすれば、自然と実を結ぶ。成長させて下さるのは神である。しかし、種が蒔かれなければ、いくら土地が良くても、いくら水を与えても、実を結ぶことはない。種とは神のことば、いのちのことばである。それを、私たちのうちに「豊かにすまわせる」ことが秘訣。


2012年3月3日    “キリストとの共同相続人” No.14    マタイ 25:31-46、ヨハネ13-14章、コロサイ3:16-17など

2012年3月3日   ”キリストとの共同相続人” No.14   浅井導牧師 mp3      


ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」
イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13:8)。

ここでの「何の関係もありません」という言葉は、「何の分け前もありません」という意味である(これに関しては、2012年2月26日の日曜4時のメッセージのサマリーに詳しく説明されている)。この「分け前」こそが、イエス様がいなくなられた後、弟子たちが神の相続人として受け継いでいったもの。彼らは、自分たちに何が「分け前」として与えられていたかをよく知っていた。それは、イエスの名と聖霊のパッケージである。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう(ヨハネ14:13−14)。

今日、「イエスの名」は、本当に力のない、安いものになってしまった。それは、「イエスの名」がそのように変わってしまったのではない。私たちクリスチャンが、「イエスの名」の持つ権威と力に関して、無知になってしまったに過ぎない。イエス様がきのう、今日、永遠に変わることのない方であるならば、「イエスの名」もきのう、今日、永遠に変わることはない。上のことばをよく瞑想すると良い。イエス様の言われる「わたしの名によって求める」のは、あなたや私がすること。そして、「それをしましょう」と言われているのがイエス様である。でもこれは、イエス様がこの地上におられなくなった後のことを言っていることを忘れてはならない。ここで言う「求める」とは、願い求めることではなくて、病人や悪霊に付かれた人たちに、また、あらゆる悪魔の支配に苦しむ人達に対して、直接「イエスの名」によって解放の宣言をすることを指す。それが大きな鍵だ。あなたがこのイエスの名で宣言する時、それをするのはあなたではなく、「わたしはそれをしましょう」と言われるイエス様ご自身である。つまり、あなたが「イエスの名」によってすることは、イエス様のなさること。これこそが相続人に与えられた身分であり、大きな特権だ。

次に私たち神の相続人が父から受け継ぐものは、聖霊である。

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです(16-17節)。

聖霊は、イエス様の代わりに与えられる「もうひとりの助け主」。イエス様が体をもってこの地上に存在される代わりに、聖霊が、神の相続人の体をその住処として住まわれる。聖霊は、あらゆる点において、イエス様の代わりである。しかし、体を持っておられないので、私たち相続人の中に住まれ、私たちの体を用いて、この世界に働かれる。実は、イエス様がこの地上におられた時も、聖霊は、そのようにして、イエス様を通して働かれた。そして、病人が癒され、悪霊が追い出され、死人が生き返り、人々はみことばを聞いて救われた。その同じ聖霊が、今は、私たちの中に住まわれ、私たちの体を住まいとされた。この聖霊が、上で述べた「イエスの名」とセットになって私たちに与えられた。私たちが「イエスの名」で何かをすることは、イエス様のなさることと同じ、それに加えて、イエス様に与えられていた聖霊が、同じように私たちの体に住まわれるならば、私たちは、イエス様がこの地上におられたときの状態と全く変わらないことになる。言うなれば、このイエスの名と聖霊によって、たくさんの「イエスたち」がこの地上に存在することになった。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです(12節)。

私たちは、父なる神様の分身であり、キリストとの共同相続人である。そして、共同相続人が父から相続するものが、イエスの名と聖霊である。相続人がイエスの名と聖霊によって語ったり、行なったりすることはすべて、イエス様が 語られ、なさったのと同じである。

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい(コロサイ3:16-17)。


2012年2月25日    “キリストとの共同相続人” No.13    マタイ 25:31-46、ルカ19:11−27など

2012年2月25日   ”キリストとの共同相続人” No.13   浅井導牧師 mp3      


もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8:17)。

私たち相続人がキリストとともにする苦難とは、キリストが今も負っておられる人類の救いに関する重荷のことである。イエス様の場合は、それをご自分の上に負うという言葉が本当にふさわしい。同じ負い方で、2000年前は、私たちの罪とのろいをご自分の上に負われ、十字架の上で死んで下さった。したがって、罪から来る苦しみを、私たちが今なお負う必要は全くなくなった。だからと言って、キリストがもはや、この地上に住む人間たちの持つ苦しみに関心がなくなってしまわれた訳ではないし、その死と復活の後、ご自分の役目はすでに終ったと思っておられる訳でもない。ただ、人類の敵であったサタンはすでに裁かれたことは忘れてはならない。しかし、まだ救われていない人々は、この地上に大勢いる。たとえイエスを主と告白していても、無知がゆえに苦しむクリスチャンも大勢いる。また、イエスの名のゆえに迫害を受ける者もいる。キリストは、父なる神の右の座にいながら、それらの苦しみを、ご自分の苦しみのようにして負い、私たち地上に残された人々のためにとりなしていて下さる。その苦しみの一部を彼とともに負い、そのために労苦していくのが私たち相続人の役目であり、まだ体をもって地上に残されている私たちの使命である。キリストも私たちがいなければ、おできにならないことがいっぱいある。それは、パウロ式に言うと、「キリストの苦しみにあずかること(ピリピ3:10)」であり、「キリストの苦しみの欠けたところを満たす(コロサイ1:24)」ことでもある。

そのことを理解するには、キリストが今なお、人間たちの苦しみをどのように見ておられるのかを知ることが一つの鍵だ。それは、次の例え話によく表されている。

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます(マタイ25:31-33)。

「人の子」とは、人として死んでいかれるひとり子の神のこと。そんな彼が「その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき」とは、その死や復活のことではなく、再び「来るとき」のことである。その時、「すべての国々の民」が彼の前に集められ、右と左に分けられる。

そうして、は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい(34節)。

ここから、最初の「人の子」「王」に変わっていることに注目。彼が王位を受けて帰って来られたからである。それにしても、これらの民が、どんな理由で、また何を基準にして羊と山羊に分けられたのだろうか。実は、そこに大きな鍵がある。よく瞑想すると良い。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに...(35-36節)。

これが、今の時代に生きる相続者の使命であり、私たちがキリストと苦難をともにすることの意味である。この真理に関しては、次のような例え話もある。まずは、どんなことがこの例え話の切っ掛けになったかに注目すると良い。

人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたからである。それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい(ルカ19:11−13)。』

この「身分の高い人」「王位を受けて帰る」までの間がある。つまり、この「身分の高い人」の不在の期間のことだ。そのあたり、マタイ25章の例え話とつながってくる。また、その期間、彼のしもべに当たる人達に、一人一ミナずつ与えて、それで商売するように命じられるということだが、何だろう、この「一ミナ」とは。単なるお金のことを言っているのではないことは分るが、「これで商売しなさい」とはどういう意味か。


2012年2月18日    “キリストとの共同相続人” No.12    ガラテヤ3:14、ルカ11:1−13など

2012年2月18日   ”キリストとの共同相続人” No.12   浅井導牧師 mp3      


このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです(ガラテヤ3:14)。

神の相続人が受け継ぐものは、食べ物や服のような、物質的なものではなくて、霊的な祝福である。といっても、相続人が、物質的な祝福を受けないという意味ではない。また、霊的な祝福といっても、それを何か実質のない物のように考えてはいけない。事実、神の相続人が受け継ぐ永遠の御国も、物質の世界であり、そこでも私たちは物質的な祝福を受けていく。ただ、私たちの住む今の世界は、やがて全部滅ぼされる時が来るので、この地上にあるものに価値を見つけ過ぎると、誤ってしまう。それよりも遥かに価値のあるものがあることを忘れてはならない。それを、霊的祝福と呼び、それを代表するのが「聖霊」である。上のみことばでは、「アブラハムへの祝福が」、即ち、霊にあるアブラハムの子孫が受けるのは、「約束御霊」であると述べている。また、以下のようなみことばもある。

この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです(エペソ1:13−14)。

聖霊は、私たちが相続人であることの保証(手付金)である。聖霊は、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証して下さる。その聖霊こそが、使徒の働き2章に見るように、この地上に教会をもたらした。教会とは、福音書の言う「神の国」のこと。これが、私たち相続人が受け継ぐもののシンボルであり、やがて、受け継ぐ永遠の御国、新しい天と地の前触れとなるもの。

ルカの福音書11:1−13の祈りに関するイエス様の教えは、この時代に生きる相続人のあり方や目的を示したものとも言える。上で述べたことを頭に置いてよく瞑想すると良い。

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください(ルカ11:1)。」

これが、この教えの発端となった。ヨハネはいったい、どんな祈りを教えたのだろうか。注目すべきは、私たちにも祈りを教えて下さい」という言葉。「私にも...」ではない。つまり、この祈りは、「私たち」でする祈りだということ。

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように(2節)。

まず、「父よ」から始まるが、それは、この祈りをする弟子たちが、神の子どもであり、相続人であることが条件となることを示している。父の御名をあがめたあと、求めることとして、「御国が来ますように」ということばが最初に来る。これが、このあと13節までの一貫したテーマとなる。一見すると、この主の祈りと、三つのパンを求める話し、そして、父親に魚や卵を求める話しが、単に、祈りに関する教えが並べてあるように見えるが、そうではない。それは、その最後を見ると分る。

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう(13節)。」

パンを求めることから、最後は、聖霊を下さることに変わってしまった。何が言いたいのか、とちょっと頭をかしげる。確かに、魚の代わりに蛇を与えたり、卵の代わりにさそりを与えるような神様ではないが、パンを下さいと言うのに、しかも、「あくまで頼み続ける」祈りによって、やっと与えられるのが聖霊とは、ちょっと不思議だ。パンは必要ないということだろうか。このあたり、的外れの解釈をしていることが多いが、これはどういう意味だろうか。


2012年2月11日    “キリストとの共同相続人” No.11    ローマ8:17、ルカ16:14−31など

2012年2月11日   ”キリストとの共同相続人” No.11   浅井導牧師 mp3      


もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります(ローマ8:17)。

さて、神の相続人として、私たちに要求される大切な生き方について、さらに学んでいく。ルカ16章では、不正な管理人の例え話のあと、話しは、イエス様のパリサイ人に対することばに移っていく。

さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた(ルカ16:14)。

15章の初めのところから、イエス様は、ご自分を非難するパリサイ人たちを教えるために、連発的に例え話を語られた。それが16章に入ると、途中で、弟子たちに向かって、不正の管理人の話しを話されたが、ここでまた、パリサイ人たちに対する教えにもどってくるかたちになる。イエス様が弟子たちに教えておられた間、パリサイ人たちもそこにいて聞いていた。彼らは、不正の管理人の例え話をどのように解釈したのだろうか。どこまで、彼らに理解できただろうか。たとえ理解できたとしても、その教えに賛同し、受け入れることなど、彼らにはできなかったはず。そこで、イエス様は言われた。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます(15節)。

人を正しい者とするのは、神ご自身がキリストを通して初めておできになること。ところが、パリサイ人たちは、自分で「自分を」、しかも、神の前ではなく、「人の前で」正しい者とした。もちろん、そんなことをしても、「神の前で」正しいとされるわけではなく、むしろ、神ご自身に「憎まれ、きらわれる」ことになる。彼らは単に、人の目に自分が正しい者であるかのように見える格好をしていたに過ぎない。皮肉にも、彼らに見下された遊女や取税人たちの方が、神の前に自分たちの罪を悔い改め、罪赦されて、神の国にどんどん入ってきていた。

律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています(16節)。

これらの教えのあと、話しは、金持ちとラザロの例え話に移っていく。この話しは、例え話というより、実話の色合いの濃いもの。その理由の一つは、この「貧しい人」「ラザロ」という実名が使われていること。ひょっとしたら、聞いていたパリサイ人たちの知っていた貧乏人の中に、ラザロという名の人がいたかもしれない。

ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた(19-21節)。

「犬」たち(本当は複数)が登場人物の中に含まれているのには、何かの意味があるはず。犬は、人に飼われる動物。この金持ちの門前にいた「犬」たちとは、野良犬か、飼い主のいる犬であったのか。金持ちの家の門前にいたことから、彼の家の番犬たちであったかもしれない。もしそうなら、金持ちの犬たちにふさわしく、ごちそうを毎日食べていたはず。あるいは、飼い主のいない犬たちであったかも知れないが、たとえ野良犬であっても、かわいそうに思って餌を与える人は多いではないか。しかし、このラザロには...

さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた(22-23節)。

ここで、アブラハムが登場する。アブラハムとは、神に選ばれた最初の相続人。その子供たちであるユダヤ人は、みな相続人であるはず。自分を正しい者と考えるパリサイ人たちは、自分たちこそが、だれよりも相続を受け取るのにふさわしい者であると考えていた。ところが...


2012年2月4日    “キリストとの共同相続人” No.10    ルカ16章、ローマ8:17など

2012年2月4日   ”キリストとの共同相続人” No.10   浅井導牧師 mp3      


もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります(ローマ8:17)。

人が、神の相続人、即ち、キリストとの共同相続人として歩むためには、その生き方においてどうしても必要とされる要素がある。その要素とは、キリストと「苦難をともにする」ことである。でも、この苦難とは、病気や貧乏、家庭問題に苦しむことを言っているのではない。なぜなら、キリストは、私たちが健康であるために私たちの病を負われ、私たちを豊にするために貧しくなられ、私たちが赦し合うことができるために十字架の上で「父よ。彼らをお赦し下さい...」と祈られたからである。相続人は、それらのすべての苦しみからすでに贖われている。その苦しみをなおさら、私たちが負う必要はない。だったら、いったい、私たち相続人は、どんな苦難をキリストとともにするのだろうか。

ルカ16章の例え話(不正の管理人と、金持ちとラザロの話し)は、まさにこの質問に答えている。実は、16章の話しは、15章から続いて語られたもので、その文脈に大きなヒントがある。15章の二人の息子(放蕩息子)の例え話の最後には、次のようなことばがある。

父は彼に言った。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ(15:31)。

これは、父親の身代を食いつぶして帰ってきた弟息子に腹を立てた兄息子が、自分には「子やぎ一匹下さったことはありません」と文句を言ったことに対する、お父さんの答えである。「私のものは、全部おまえのものだ」とは、その比喩的意味を思う時、大きな驚きだ。

それと対比するかのように、16章の例え話が語られている。この不正の管理人の例え話は、福音書の例え話の中でも、一番難解なものとされるもので、学者たちの間でも、なぞの例え話とされている。しかし、なぞでも何でもなイ。頭を柔らくし、霊の声を聞くならば、その言わんとする意味が見えてくる。

イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された(16:1)。

実は、この例え話には、その前提となる、非常に大切な真理がある。それを踏み外すと、全く分らなくなってしまう。それは、旧約聖書の中に見られる考え方で、この地上で人が所有する物のすべてが、実は、神のものであるという真理。言い換えれば、私たちの手元にあって、自分の持ち物として存在するように思える物がすべて、実は、私たちがこの地上にいる間、神のみこころにしたがってそれを用いるように、単に私たちに預けられた物に過ぎないということだ。この真理の全部が、「ある金持ちにひとりの管理人がいた」という初めのことばの中に要約されている。金持ちは主人であり、すべての財産の持ち主。その管理人は、主人の持ち物を管理するだけで、自分の持ち物は何もない。そこが分れば、この例え話の半分は理解できたことになる。

忘れてはならないのは、これが例え話であること。単なる物語を語ろうとしているのではなくて、これを踏み台にして、もっとレベルの高い真理を教えようとしている。この金持ちとは誰のことか。これをこの世の領域で考えていると、全く理解不可能になる。頭を柔らくして、神様の立場に立って、物事を見、考えようとすることが秘訣。

あとで分るが、この時イエス様の話しを聞いていたのは、弟子たちだけではなくて、パリサイ人たちもいた。イエス様の次のような言い回しは、パリサイ人たちを意識してのことばであったことが分る。

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた(8節)。

この驚きが、この例え話の中心点である。この驚きは、神様の考えが私たちの考えとは違う証拠であり、私たちがまだ知らないでいる、何か大きな真理があることが分る。


2012年1月28日    “キリストとの共同相続人” No.9    ローマ4:13−16、1ペテロ1:3-4、ルカ11:1−13など

2012年1月28日   ”キリストとの共同相続人” No.9   浅井導牧師 mp3      


私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです(1ペテロ1:3-4)。

このみことばは、私たちが神の相続人として相続するもののことを、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」と呼んでいる。ということは、それは、食べ物や着る物、つまり、目に見える物ではないことが分る。

こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます(マタイ6:32-33)。

目に見える物質的な物は、「異邦人」、つまり、神の相続人ではない人々が求めるもの。私たちの天の父は、それらのものが私たちに必要であることをご存知で、その必要を満たして下さる。そして、すべての必要が満たされたと知るならば、あとは、「神の国とその義をまず第一に求める」だけである。それにしても、なぜ、イエス様は、相続人に「神の国とその義」を求めるように言われたのか。ルカの福音書では、次のように書かれている。

何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです(ルカ12:31−32)。

「神の国」は、それを求める者に、父が「喜んで」与えて下さると言う。実は、この神の国こそが、神の相続人が受け継ぐ資産であり、一番価値のあるものである。もし、それに価値がないとすれば、イエス様が、それを「まず第一に」求めるように命令されるはずはない。実は、彼がこの地上に来られ、十字架にかかって死なれ、また復活されたのは、神の国をこの地上にもたらすためであった。

彼が弟子たちに教えられた「主の祈り」の中でも、神の国に関して次にように言われた。

祈るときには、こう言いなさい。「父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。...(ルカ11:2)。

「御国が来ますように」とは、どういう意味だろうか。まず、この場合の御国とは、神の子どもたちが、この地上を去ってから入る天国のことではない。もし、それが天国のことなら、「御国が来ますように」ではなく、「御国に入るように」と祈るべきだ。それが「来ますように」ということは、祈る人のいる場所に来るように、という意味。マタイの福音書では、次のように書かれてある。

だから、こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。・・・(マタイ6:9−10)。

神の「御国」とは、神の「みこころ」が行なわれる場所のこと。「みこころ」「地でも行なわれますように」ということは、結局、「御国が来ますように」と祈ることと同じである。

ルカの福音書11章では、主の祈りのあと、三つのパンを求める例え話、また子供が父に魚や卵を求める話しに続いていく。実は、これらの話しは同じテーマの下に話された、一つのまとまった話しと見なすべき。

してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう(ルカ11:13)。

神の国を求めて、そのために祈ることから始まった教えが、最後は、聖霊が与えられるという、父の約束に変わっていることに注目。


2012年1月21日    “キリストとの共同相続人” No.8    マタイ20:1-16、19:16-30、ルカ15:11−32など

2012年1月21日   ”キリストとの共同相続人” No.8   浅井導牧師 mp3      


もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです(ガラテヤ3:29)。

神の相続人は、神の約束に生きる。神の約束とは、神が私たちのすべての必要を満たし、私たちを祝福して下さるという約束のこと。アブラハムに子どもを与え、その子孫を一つの国民にし、全世界の民族が彼を通して祝福されるようにすると約束されたのは、神ご自身であった。神の約束とは、神ご自身が、ご自分の意志で、こうしたいと願い、また決心されたことを指す。人がそれをするのではない。神様に、何か人の助けが必要なのではない。神の約束は、神ご自身が成就して下さる。これを恵みと言う。神の相続人とは、神の約束を信じ、神からの一方的な恵みを受けて生きる者のこと。これが、神の国の会員の生き方で、祝福は恵みのシステムによって流れてくる。

ところが、罪が入った後の人間の世界は、これとは全く異なったシステムの上に動いている:神の約束ではなく、人間の考えと努力によるシステム。その会員は、イサクのような約束の子どもではなく、イシュマエルのような肉による子どもである。彼らはみな、報酬をベースにしたレース(競争)の中に巻き込まれて、踏みにじられ、血だらけになってもがいている。勇気を出して、早くそのレースから脱出し、神の恵みの中に飛び込んでくることだ。

デナリの労務者たちの例え話の中で、夜明けから働き始めた労務者たちが、主人に言った文句のことばに注目。

この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです(マタイ20:12)。  

これが、報酬のレースにいる者たちの声である。レースには必ず、誰が「先」で、誰が「あと」という基準がある。その基準によれば、夜明けから働いた者が「先の者」で、最後に働き始めたものが「あとの者」「先の者」は、まさに自分がこの報酬のレースの先にいる者だと思っていた。ところが、恵みの世界には、「先」「あと」もない。

このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです(16節)。

マタイの福音書では、この例え話の直前に、金持ちの役人の話しがある(19:16−30)。おもしろいことに、その話しの結論も、次のようなイエス様のことばで終っている。

ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです(19:30)。

う~ん、何がおっしゃりたいのか。ここでの「先の者」とは、弟子たちのように、イエス様の名のために、「家、兄弟、姉妹...」を捨てた者たち。そして、「あとの者」とは...。この話しは、次のように始まっている。

すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか16節)。」

この人も、報酬のレースのど真ん中にいる。恵みの中で生きていない。永遠のいのちを得るために、人に何ができると言うのか。だから、苦しそうだ。それに発破をかけるように、イエス様は、彼に言われた。

「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい(21節)。」

こう話していると、多くの人が、深刻な顔をして、「そうなんですか。財産を捨てないと、救われないんですか」と聞いてくる。ああ、どうして、そんなに、人には、恵みというものが理解できないのか。弟子たちも同じであった。

弟子:「それでは、だれが救われることができるのでしょう(25節)。」

イエス様:「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます(26節)。


2012年1月14日    “キリストとの共同相続人” No.7    ローマ4:13−17、創世記1:26−2:3、ルカ18:9−14、マタイ20:1-16、など

2012年1月14日   ”キリストとの共同相続人” No.7   浅井導牧師 mp3      


というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです(ローマ4:13)。

人間は、そもそも、創造の初めから、神の子どもとして、また世界の相続人として、神の恵みによって生きるように造られた。人が造られたのは、すべての被造物が造られた第6日目の終わりであった。

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ(創世記1:28)。」

すべてが準備され、完成された世界に、人が存在し始めた。神は、その創造の初めから、人を「祝福された」。人がまだ、何の働きも、労苦も、努力もする前に、彼らを祝福された。これは真理である。

神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日(31)

そこには、人が自分の必要のために労し、働かなくてはならないというようなニュアンスの言葉は一つも出てこない。しかも、この続きを読むと:

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである(2:1−3)。

第6日目の終わりに人が創造され、その日の夕方から、第7日目に入った。人が次の朝起きると、その日は、聖なる安息日であった。仕事をせずに、神をほめたたえ、礼拝する日であった。神は、その日を祝福された。そして、第8日目は来なかった。聖書のどこにも、第8日目が来たことが書かれていない。今も、まだ第7日目の時代の中に、私たちは毎日生きている。

神の恵みとは、人間の資格とか、努力とか、労力によらず、神からの一方的な意志によって与えられる祝福のこと。人が自分の行ないの労苦や、努力によって得るものは、恵みではなく、報酬である。報酬は、人の働きの度合いに比例して与えられるもので、多く働けば、多く与えられ、少なく働けば、少なく与えられる。人の世界では、報酬がすべてである。働く者がその働きに応じて報酬を得るのは当然で、働かない者が報酬を得ることはあってはならないこと。確かに、怠け者であることは良くないし、働いて人に仕えることは良いことであると、聖書も教える。しかし、良くないのは、報酬を基盤とする世界では、貧しい人々が貧しくあるのは、自分たちの働きと努力の足りなさのせいであり、豊かな人が豊かであるのは、自分たちの能力や努力のすばらしさのせいと考えること。当然、豊かな人は、自分の働きや業績を誇ることになる。イエス様が、「金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです」と言われたのは、まさにその点である。

これに関して、マタイ20章のデナリの労務者たちの例え話は、私たちの祝福に対する考え方の間違いを明確に指摘している。この例え話の大きな驚きは次の部分にある。

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。「労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。」そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった(マタイ20:8-10)。

ええ?!どうして?自分の目がおかしいのか、耳がおかしいのか。これは間違いではないか。いや、間違いではない。

しかし、彼(主人)はそのひとりに答えて言った。「友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか(13-15節)。」


2012年1月7日    “キリストとの共同相続人” No.6    ガラテヤ4:21−31、マタイ6:25−34、ルカ22:24−34、ローマ4:13−17など

2012年1月7日   ”キリストとの共同相続人” No.6   浅井導牧師 mp3      


もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです(ガラテヤ3:29)。

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです(4:28)。

主にあるあなたは、神の子どもであり、約束による相続人である。上の二つのみことばは、神の相続人が約束によるものであることを述べている。約束とは、神がキリストを通して相続人となった人々に与えると言われた身分や祝福に関する約束のことであり、みことばのことである。神の相続人は、神の約束によって生まれ、神の約束の上に立って生きる。あなたが神のことばを聞き、その約束を信じる時、あなたの中に信仰が生まれる。したがって、約束によって生きるとは、信仰によって生きることと同じ。その反対の生き方が、律法の行いによる生き方。

人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです(ローマ3:28)。

これは、非常に聖書的な表現なので、理解するためには説明がいる。聖書の律法とは、神の創造された人間の取るべき行動を示したもの。律法そのものは神から出た聖なるものであり、正しい人間の生き方を具体的に示したもの。しかし、それを自分で守ることができると考え、その努力をする時に、その落とし穴に落ちる。なぜなら、まさしくそれが善悪の知識の木から取って食べることと同じだからである。それには比喩的な意味があり、律法の行いを、ただ単に、狭い意味での旧約の律法を守る行いのことだけに取るより、人間の生活のための努力や労苦一般、つまり、肉の力による行いと理解すると良い。人は、その創造の初めから、肉にある努力や労苦によって生きるのではなく、神の恵みの下に生きる者として造られた。このことに関しては、時間の都合上、長く話せないので、よく瞑想して欲しい。非常に大切な真理である。

神の相続人になるとは、ひと言でいうと、人間の本来の生き方にもどることだ。つまり、アダムが善悪の知識の木を取って食べる以前の人間にもどること。神の子どもとして、与えられた権威によって地を従え、治めていくことを指す。それは、いわば、世界の相続人になることである。

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです(ローマ4:13)。

アブラハムは、律法も割礼もまだなかった時に、星を数えることによって初めて主を信じた。それが彼の義と認められ、神の相続人となった。それを「信仰の義」と言う。同様に、私たちも、律法を守らずして、キリストを信じる信仰によって、罪赦され、神の義とされた。なぜなら、それが神の約束であったからだ。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです(2コリント5:21)。

したがって、神の約束によってすでに神の義とされたものが、今なお、自分の努力で義とされようとするのは、おかしい。もう既に、男として生まれ、男であるのに、いつか男になろうと願って努力するとしたら、その人は気違いだ。私たちが神の相続人となることも、また、相続人として受ける特権や祝福も、みな、神の恵みであり、その約束を信じる信仰によるとは、大きな真理である。

ところが、善悪の知識の木を取って食べた後の人間たちはみな、この生き方を忘れてしまった。サタンは、確かに、私たちを洗脳して、私たちが自分の努力に頼ることが良いことのように思わせることに成功している。人は、恵みによって生きることが悪いことのように考えて、自分の力や能力を誇っている。しかし、その一方では、自分の無力さも知っているので、心配が来る。イエス様は言われた。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか(マタイ6:26)。

「あなたがたの天の父」という言葉に注目。神が父なら、私たちはその子どもである。子どもは、父の豊かさの下に、彼の持ち物から必要に応じて、すべてを受ける権利を持っている。それを相続人と言う。この意味が分るだろうか。


2011年12月31日    “キリストとの共同相続人” No.5    ガラテヤ4:21−31、創世記16、 21など

2011年12月31日   ”キリストとの共同相続人” No.5   浅井導牧師 mp3      


神の相続人、キリストとの共同相続についての学びは、今までのところ、創世記の話しを中心に、聖書の言う相続人というものがどんなものか、具体的な例を見て来た。特に、アブラハムとロト、また、エサウとヤコブの生涯を比べて、相続人とそうでない者との違いを見た。それぞれ、相続人としての違った面が浮き彫りにされているので、何回も復習し、神にある相続人が受ける祝福、また相続人自身が祝福となることの意味をよく把握して、自分に適用すると良い。

今回は、アブラハムのふたりの子、イシュマエルとイサクを比べて、相続人としてのもう一つの大切な面を見ていく。まずは、ガラテヤ書の次のようなことばを読んで見よう。

そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです(ガラテヤ4:22-23)。

この箇所では、この二人の子どもの生まれ方の違いを問題にしている。それが大切な真理を比喩しているからである。一人は「女奴隷」から生まれた子、もう一人は「自由の女」から生まれた子である。女奴隷の子は「肉によって」生まれ、自由の女の子は「約束によって」生まれたとも言っている。このあたり、創世記の話しを知っていれば、どういう意味なのか、すぐに分る。

注目すべきは、イシュマエルが生まれたいきさつである。アブラムの妻サライには、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライがある時、夫に言った。

ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう(創世記162)。

これと、神様の次のような約束のことばをよく比較してみると良い。

わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう(1316)。

これが、肉によるのと、約束によるのとの違いだが、分るだろうか。両方とも、子どもが欲しいという願いに対するものであることは同じ。しかし、上のサライの言葉では、「主は私が子どもを産めないようにしておられます」と言っているが、下の神様の言葉は、「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる」と言っている。サライの言葉は、神様の約束に対して真っ向から反対している。これを疑いと言う。そして、神がそれをして下さらないならば、自分で行なうしかない、と考えるのが当然で、これを「肉によって」する行いのこと(これは、信仰にともなう、約束の上に立った行いとは違うので要注意)。肉によって生まれたイシュマエルは、神の約束と計画によって生まれた子ではないので、この後、イサクが約束によって生まれた時、人類の救いのための相続人に関して、イシュマエルは邪魔な存在になってしまう。救いは、完全な神の恵みによるもので、人間の努力や考えの入る余地はない。

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊(霊、聖霊のことではない)によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない(ガラテヤ42830)。」

イサクが生まれ、乳離れした日に、イシュマエル(当時10代)が彼をからかっていた。イシュマエルは、自分が相続人ではないので、妬みからそうした。それを見たサライが、夫に、ハガルとイシュマエルを追い出してくれるように頼んだ。アブラハムにとっては、イシュマエルも自分の子であるので悩んでいると、神が彼に、サラの言うことを聞くように言われた。パウロによれば、迫害は、いつも、「肉によって生まれた者」(相続人でない者)が「霊によって生まれた者」(相続人)を妬むかたちで起きると言う。真理だ。

こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです(31節)。


2011年12月24日      ”みことばで生まれて” No.2    ヨハネ1:14、1ヨハネ3:9-10、ヤコブ1:18-27、ガラテヤ5:19-23

この日は、クリスマスにちなんで、キリストが「ことば」としてこの地上に来られた事実から、私たちがみことばを実行することによって、霊の実を結んでいく者であることを学びました。

キリストの共同相続人のシリーズは、クリスマスの後、また続けて学んでいきます。

2011年12月24日   “みことばで生まれて”   浅井導牧師 mp3

キリストの誕生に関して、ヨハネは、マタイやルカの福音書のように、それを歴史的出来事としてではなく、その意味を神学的に説明しようとした。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)。

ここで言う「住まわれた」という言葉は、ギリシャ語でskenoo(子音がskn)。これは、セム語から取り入れられた外来語。ヘブル語では、shakan(子音が同じskn)、「住み着く」の意味。遊牧民であったヘブル人にとって「住み着く」とは、天幕(テント)生活をすることを指す。ヨハネの言わんとすることは、「ことば」なる神が、体という天幕を持って、この世界で天幕生活をされたということ。神が住む天幕のことを幕屋、すなわち、mishkan(shakanから来た名詞)と呼ぶ。幕屋も神殿も、神の住まれる家のこと。つまり、ヨハネによれば、「ことば」なる神が、神の神殿としてこの地上に住まわれるようになったというのが、その誕生の意味だと言う。

キリストは、「ことば」として、この地上で神のことばを実現して下さった。彼は、みことばを実行する者の代表として、その模範を私たちに示して下さった。その生き方を目撃した弟子たちは、今度は、自分たちが世界に出て言って、そのことばを実行して多くの実を結んだ。そして、今は、私たちの番である。私たちも、私たちを生んでくださった霊の父の子どもである。私たちが生まれたのは、「神の種」、即ち、「真理のみことば」による。

だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです(1ヨハネ3:9)。

神から生まれた者は、神の子どもで、そうでない者は悪魔の子ども。その区別ははっきりしている。神の子どもは、義を行い、愛の実を結ぶ。悪魔の子どもには、それはできない。

そのことによって、神の子ども悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです(10節)。

ヤコブ1:21−22によれば、真理のみことばによって生まれた神の子どもたちが実を結ぶために必要なステップがある。

1)みことばを聞く
2)すべての汚れやあふれる悪を捨て去る
3)心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れる
4)聞いたみことばを実行する

そして、その実にどんなものがあるかと言えば:

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤ5:22-23、新改訳)。

最初に「愛」が来るのに注目。実を結ぶのは私たちクリスチャンである。父は農夫で、キリストはぶどうの木、私たちが枝で、枝が実を結ぶ。聖霊ではない。したがって、上の訳の「御霊の実」というのは、正確には正しくない。「霊の実」と言った方が良い。霊の実があれば、肉の実もある。肉の実とは、その行いのことで、次のように言っている。

肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです(19−21節)

これが、霊によって歩む者と肉によって歩む者との差である。神の霊である聖霊と人の肉の対比ではなくて、単に、霊と肉を対比していると考えた方がスムーズ。

肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです(17節、新共同訳)。

もしあなたがたクリスチャンとして、霊の実を結びたいと望むならば、この真理を絶対に知る必要がある。霊によって歩む者だけが、霊の実を結ぶことができる。


2011年12月17日      ”みことばで生まれて” No.1    ヨハネ1:14、イザヤ55:11、ヤコブ1:18-27、ピリピ2:13-16

この日は、クリスマスにちなんで、キリストが「ことば」としてこの地上に来られた事実から、私たちがみことばを実行することの大切さについて学びました。

2011年12月17日   “みことばで生まれて”   浅井導牧師 mp3

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた(ヨハネ1:1−2)

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた14節)

キリストは、世界創造の前から存在していた「ことば」であられた。すべてのものがこの「ことば」によって造られ、今も「ことば」によって維持され、成り立っている。そして、この「ことば」が、ある時、体を持ってこの地上に来られた。ことばとは、それを語る者の心を表すもの。神のことばは、神のみこころを啓示し、そのみこころをこの地上で実現する。

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる(イザヤ55:11)

人となった「ことば」は、この地上で神のみこころを成し遂げた。そして、この「ことば」は地に蒔かれ、多くの実を結ぶことになった。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます(12:24)。

このような生き方をするのは、イエス様だけだと思ってはならない。みことばは、今度は、私たちの心に蒔かれた。それは、この地上で私たちを通して神のみこころが実現されるためである。私たちは、みことばによって生まれ変わり、みことばを実現するために生かされている。

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです(1ペテロ1:23)。

人のことばとは違って、神のことばは生きている。みことばは、私たちの心に植え付けられて、実を結ぼうといつも成長している。神の言い送ったことをこの地上で実現しようとしている。父は農夫で、キリストがぶどうの木。私たちは枝である。実を結ぶのが私たち枝の役目である。

父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです(ヤコブ1:18)。

みことばによって生まれた私たちは、実を成らし、その実が収穫されて、神の前に捧げられる聖なる初穂となる。そのために私たちの側でしなければならないことは何であろうか。私たちの心に蒔かれたみことばは、何もしないでもそのまま実現して、実を結ぶだろうか。その答えは、ことばとして生きられたイエス様の生き方の中にある。ヤコブの手紙は続けて次のように言っている。

愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません(ヤコブ1:19−22)。

結論から言えば、それは、みことばを実行することだ。みことばを行なうときに、みことばが実現する。みことばが実現すれば、実を結ぶことになる。しかし、あなたが、聞いたみことばを実行しなければ、みことばは実現されないで終わり、実を結ぶことはない。でも、多くのクリスチャンが思っている:「みことばを実行することは、簡単ではないですよねえ。できないですよ」と。さあ、それに対して、聖書は何と言っているだろうか。


2011年12月10日    “キリストとの共同相続人” No.4    創世記27、 28、 ヘブル12:14−17、イザヤ2:2−3など

2011年12月10日   ”キリストとの共同相続人” No.4   浅井導牧師 mp3      


今回は、エサウとヤコブの人生の歩みの違いから、相続人とそうでない者との違いを見ていく。この説教は、創世記25章以降のエサウとヤコブの話しに精通していることを前提にするので、まだよく知らない人は、そこを何回も読むこと。子どもの教会学校のように、単なる話しとして読むのではなく、ことばをよく瞑想しながら読むこと。聖書は深いもの。その深さを求める人は、隠されている奥義を、いくらでも掘り下げていくことができる。

焦点となるのは、28:10以降にある、ベテルでのヤコブのヤーベの神との出会いの話しである。彼が長子の権利をエサウからだまし取った後、契約の相続人として出発した時の出来事である。これは、アブラハムの場合ならば、15章で空の星を数えて、主を信じた話しにちょうど匹敵する。ここから、ヤコブの人生は大きく方向を変えることになり、相続人から外されたエサウとの違いが決定的になっていく。言い換えれば、主の道を歩むための、主にある訓練の始まりである。

あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(創世記28:14−15)。

創世記のこのあたりの話しの一つの見所は、イサクをだまし、兄エサウから奪い取る形で長子の権利を自分のものにしたヤコブが、どのようにして、真の神の契約の相続人に変えられていくかという点である。どう考えても、ヤコブのしたことは正しくない。アブラハムやイサクが自分の妻に関する嘘にもかかわらず祝福されたこととは、ちょっとレベルが違う。それをどのように解釈し、神様がそんなヤコブをどのように取り扱っていかれるかが一つの関心事となる。神様が、エサウを退け、そんなヤコブを受け入れ、そのまま彼を相続人として受け入れていかれることは、大きな驚きであるが、そこに真理がある。

この時、ヤコブが求めていたのは、「道」であった。直接的には、ラバンのいる遠いハランの地への道のことだが、比喩的には、彼の人生の道のこと、正確には、相続人として生きるための道である。主がアブラハムに与え、彼の子孫に守らせようとされた「主の道」(創世記18:18)と同じで、モーセが荒野で主に「あなたの道を教えてください」(出エジプト33:13)と言った道のことであり、最終的には、イエス様が「わたしが道であり...」と言われた道につながっている。ヤコブは、長い年月のあと、再びベテルにもどって、自分といっしょにいた者たちに次のように言った。

あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう(35:2−3)。

ここで言う「苦難の日」とは、かつて彼が自分の将来に関して不安のどん底にいた時のこと。その時神は、彼に答え、彼を励まし、その後も彼を訓練し続けて、約束どおりに相続の地に連れ戻して下さった。これがまさしく、神の相続人として当然受けるべき訓練だ。エサウはこの訓練から外された。というのは、長子の権利を軽く考え、自ら脱落の道を選んだからである。神は愛する子を訓練なさる。子どもは相続人だからである。それは、霊の父がご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」訓練で、「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせる」ためである(ヘブル12:10-11)。

ヤコブは、この地を「ベテル」と呼んだ。ベテルとは「神の家」の意味。言い換えれば、それは、天と地を結ぶ「天の門」である。イザヤ書には、次のようなことばがある。

終わりの日に、

主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、
丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。

多くの民が来て言う。

「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。
私たちはその小道を歩もう。」

それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ(イザヤ2:2−3)。


2011年12月03日    “キリストとの共同相続人” No.3    創世記 14、15、18、22、25:27−34、ヘブル12:14−17など

2011年12月03日   ”キリストとの共同相続人” No.3   浅井導牧師 mp3      


神の相続人となることと、単に人間として神に祝福されることとは、大きな違いがある。神は、聖書が言うように、「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」方である。でも、その種類の祝福と、神の相続人が受ける祝福とは、同じではない。祝福と言っても、実は、神の相続人の場合は、自分の存在そのものが祝福となり、多くの人々が自分を通して祝福されていく。

創世記にあるアブラムとロトの話しは、その相続人と、そうでない人との違いをよく表している。ロトは、アブラムの甥にあたり、神様がアブラムと結ばれた契約とは直接関係のない存在であった。でも、彼がアブラムといっしょに旅をし、彼のもとにいる限り、彼も祝福された。

アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた(創世記13:5)。

ところが、彼らの財産があまりに増えたために、互いの間に問題が起き、ロトはアブラムのもとを離れ、緑豊かなソドムの地に行って住み始めた。その時から、ロトはどんどん祝福を失って行く。まず14章にくると、エラム(古代バビロンの東の地方)の王の率いる連合軍によって、ソドムとゴモラは占領されてしまう。

そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた(14:11−12)。

そのニュースを聞いたアブラムは、彼のもとにいた、戦うことのできる若者318人を連れて、この連合軍のあとを追い、捕われた女たちや人々を、その財産とともに取り戻した。ロトの家族もその財産とともに取り戻した。しかし、そんなアブラムに、まだ子どもがいなかった。ロトとその家族を助け、ソドムとゴモラの人々の命も救ったが、彼自身にはまだ跡取りとなる子がない状態。実は、アブラムは、確実に、祝福として存在していた。

しかし、まだその意味が分らなかったアブラムは、自分の身を嘆くことしかしなかった。そこで神様は、ある夜、彼をテントの外に出して空の星を数えさせた。この時アブラムは、初めて自分に対する神の約束を信じた。

18章に来ると、さらに、そのような祝福としてのアブラムの存在が大きく浮き彫りにされて来る。ソドムとゴモラを滅ぼすために人間の姿をとって地上に現われた3人の男がアブラムを訪問した。なんと、その一人はヤーベの神であった。彼がアブラムに語られた次のことばの中に、神の相続人としてのアブラムの存在目的が明確に啓示されている。

わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである(18:17−19)。

このあたりは、ちょっとレベルの高い話し。神の相続人であることを真剣に考える人には、絶対に必要な真理。これをよく学ぶと良い。ロトは、再び、アブラムを通して、滅びを免れ、命を救うことになるが、アブラムといっしょにいた頃に持っていた財産は全部失い、妻、結婚した娘たちとその婿たちも失って、この後彼は、二人の未婚の娘と洞穴で暮らすことになる。

ここで話しはちょっと飛んで、エサウとヤコブの話しに移る。これも、相続ということに関して、本当に沢山のことを教えてくれる。アブラムとロトの場合と違って、二人とも、文字通りのアブラハムの子孫(孫にあたる)である。しかも、普通なら、長男にあたるエサウが相続人になるべきであった。しかし、ヤコブの方が選ばれた。なぜ?これは、同じキリストにある神の相続人であっても、実際に相続人としての祝福を受けて生きる人もあれば、そうでない人もいるということをほのめかしている。ヘブル人への手紙は次のように言っている。

また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした(ヘブル12:16-17)。


2011年11月26日    “キリストとの共同相続人” No.2”    ガラテヤ4:1−7、ローマ8:13-17、創世記12-14、18など

2011年11月26日   ”キリストとの共同相続人” No.2   浅井導牧師 mp3      


もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります(17節)。

イエス・キリストを心に受け入れた者には、すべて神の子どもとなる特権が与えられた。神の子どもとは、神の相続人、キリストとの共同相続人である。神は、ご自分の子どもにも、まだ子どもとなっていない人にも、すべての人間たちに対して良き神である。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです(マタイ5:45)

クリスチャンであろうとなかろうと、人間すべてのために太陽は上り、雨も降る。では、神の子どもであるのとそうでないのと、神の相続人であるのとそうでないのと、どのような差があるのだろうか。神の相続人とは、神の祝福の相続人であり、その祝福は、単に太陽が上り、雨が降るだけのことではないはずだ。

この違いを知るために、分り易い例として、創世記のアブラハム、イサク、ヤコブといった、イスラエルの父祖たちの話しを見て行く。アブラムは、すでに年を取り、彼の妻サライは不妊の女で、子どもがなかった。子どもがいないということは相続人がいないということ。神様はわざわざ、そのような夫婦を選び、彼らと契約を結ばれた。

あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたは祝福となりなさい
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される(創世12:1-3)。

このことばの中に、これからアブラムが受けていく祝福が全部要約されている。それは次のようなポイントにまとめることができる。

    1. 彼と彼の子孫に土地が与えられる。
    2. 彼の子孫が増えて、一つの国民となる。
    3. 彼が祝福となる。
    4. 彼を通して異邦の民たちも祝福される。

これらの祝福がアブラハムの契約の柱となって、イサク、ヤコブ、そして12部族へと引き継がれていく。これを頭に置いておくと、創世記はもちろん、モーセ五書からヨシュア記、しいては新約も含んだ聖書全体を理解するのに、大変に役に立つ。

アブラハムの生涯を見て驚くことは、彼の祝福のされ方が、私たちの常識や既成の考え方をはるかに越えたものであったこと。それをよく見ることである。特に、上の12:1-3のことばの中で、あなたは祝福となりなさい。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」ということばに注目すると良い。その意味をよく考えること。その後の話しを見ていくと、それがどういう意味であるかが実際的に分ってくる。

パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた(12:16-17)。

この際、のろいを受けたのは、妻のことで嘘をついたアブラムではなく、サライを彼の妻だと知らずに取ってしまった「パロと、その家」であった。そして、アブラムはと言えば、次のように書かれてある。

パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた(12:20-13:2)。


2011年11月19日  感謝祭特別礼拝    “神の偉大なるヘセド”    詩篇23、箴言9など

アメリカの感謝祭にちなんで、感謝祭特別礼拝を持ちました。以下がそのメッセージです。


2011年11月19日   “神の偉大なるヘセド”   浅井導牧師 mp3      

「ヘセド」とは、ヘブル語で、愛、恵み、あわれみ、誠実、忠誠などの意味。ヘセドは神から来るもので、神の品性の一つ。ギリシャ語のアガペーに近いが、アガペーよりも広い意味を含む。ヘセドは、契約の色合いの濃い言葉で、契約を結んだパートナー間の忠誠や、互いの愛を指す。したがって、私たち現代人の言う「愛」が非常に感情的な色合いの強いものであるのに比べ、ヘセドには感情的な面はほとんどない。むしろ、約束を守る忠実さの意味である。このあたり、聖書のいう愛、つまり、神の愛が私たち現代人にとって理解しにくい大きな理由である。世界には、人間関係における忠誠を非常に重んじる文化がある。そこでは、誰かと友達になるとは、その人のためなら死ぬこともできる関係のことを指す。聖書の言う愛は、その種類のもの。忠誠を重んじない文化にいる人々には、ちょっと信じられない。

サウル王の息子のヨナタンは、ダビデに出会ったその日から、彼を愛し、彼と契約を結んだ。

もし、私が生きながらえておれば、主の恵み(ヘセド)を私に施してください。(しかし)、もし、私が死んだ場合は、あなたの恵み(ヘセド)をとこしえに私の家から断たないでください。そして、主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも、ヨナタンの名をダビデの家から断ち切らないで下さい。どうか、(以上のことに関して)主がダビデの手から要求されますように。」(このようにして)ヨナタンは、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである(1サムエル20:14−17)。

この箇所は、仮定法のlu’と、否定を表すlo’(この二つは子音が同じで、文脈による以外区別が付かない)が混乱されて解釈され、写本が間違って写されたようだ。おかげに、carat(「切る」の意味で、「契約を結ぶ」意味にもよく使われる)という動詞が、「ヨナタンの名を断ち切る」意味ではなく、契約を結ぶ意味に取られてしまったようで、その間違いをさらにひどくさせた。また、ヘブル語の誓いの意味の仮定法は、特殊な言い回しをするので、よく間違って訳される。上の訳は、こういったものを直したもの。

ヨナタンは、この前にダビデの要望に答え、彼を父サウル王から守る誓いをしたが、今度は自分の願いをダビデに述べて、彼に誓わせた。その誓いは二つのケースに分けて語られている:1)自分がもし生きながらえている場合は、自分の上に恵みが施されること、2)またもし、自分が死んだ場合は、自分の家(つまり、生き残った子供たちのこと)に恵みが施されること。分るかな?そして、注目すべきは、「主の恵み」という表現と、「あなた(ダビデ)の恵み」という表現:つまり、ヘセドは主からくるものだが、人間も主にならい、同じヘセドを施すという考え方。

もう既に、この時、ヨナタンは死を覚悟していた。本来なら、自分が父サウル王の後を継いで王になる存在であった。しかし、ダビデを見た時、王になるのは自分ではないことを神から教えられた。そして、ダビデのことを妬みにも思わず、彼を愛した。考えてみれば、ダビデが王となった後でも、彼の下で彼に協力して生きながらえることもできたが、むしろ、自分の父(悪霊につかれていた)に仕え、死んでいく方を選んだ。ダビデを愛したヨナタンの選択であった。このあとすぐ、この二人の最後の別れの場面が出て来る。「さようなら」を言ったのは、実は、サウル王から逃げて行くダビデではなく、ヨナタン自身であった。分るかな?

ダビデが王となった時、ヨナタンの息子で、メフィボシェテというのがまだ生きていることが分った。彼は、父ヨナタンが死んだ時、五歳であった。その悲報がもたらせた時、乳母が彼を抱いて逃げるのに、彼を落としたため、両足がなえて歩けなくなってしまった。ダビデは、ヨナタンとの契約のとおりに、サウル家の持ち物を全部、メフィボシェテに返し、土地まで与え、彼に「神の恵み」を施した。しかも、彼が、ダビデの息子たちといっしょに、毎日、王の食卓で食事をするようにもさせた。何かを比喩しているようだ。

実は、聖書には、食事に関する話しがたくさん載っている。イエス様自身も、罪人たちと食事をよくなさったことが書かれてあるし、彼の例え話にも、宴会の話しや、食事の話しが出て来るものが多くある。最後の晩餐、そして次のようなことばもその一つである。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする(黙示3:20)。

「(わたしが)彼とともに」食事をして、「彼もわたしとともに」食事するなどと、なぜ重複的な言い方をしているのだろうか。そして、次のことばを思い出す。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵み(ヘセド)とが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう(詩篇23:5−6)。


2011年11月12日 "キリストとの共同相続人"  No. 1    ヨハネ1:12、ガラテヤ4:1−7、ローマ8:13-17、創世記12など
2011年11月12日 "キリストとの共同相続人"  No. 1   浅井導牧師  mp3      

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)。

これは、ヨハネの福音書のプロローグにあることば。「この方」とは、「ことば」なるイエス・キリストのこと。その方を受け入れることは、その名を信じることと同じ。そして、その名を信じた者には、「神の子どもとされる特権をお与えになった」という。日本語の訳では、誰が「お与えになった」のか、その主語が消えているが(これは日本語の特徴)、言うまでもなく、主語は「彼(3人称単数)」、つまり「ことば」なるキリストご本人である。いずれにせよ、注目すべきは、「神の子どもとされる(または、神の子どもになる)」ことは、一つの「特権(exousia権威)」であること。それが「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」だけに与えられる特権や権威であるならば、すべての人がそれを持っているわけではない。どうも、「神の子どもとされる(となる)」ことは、すばらしい「特権」であるらしい。

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです(ガラテヤ4:4−5)。

このみことばによれば、奴隷と違って、子どもには「子としての身分」というものがある。主人に命令されたことを行なう奴隷には、生活のために必要な食べ物、着る物、住む場所が提供されるだけのこと。小さい時には、奴隷も子どもも変わりなく生きているが、大人になるとその違いが明らかになってくる。その差はどこにあるのか。子どもには「子としての身分」があるが、奴隷にはそれがない。これは、もちろん霊的な真理の比喩である。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です(6-7節)。

言うまでもなく、この「身分」は、地上での家族や、人の社会における身分のことではない。神の子どもには、自分の神を「アバ、父」と呼べる特権が与えられている。御子の御霊が彼らの中に住んでおられるからである。

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます(ローマ8:14−16)。

これらのみことばは、霊の世界における、霊である父の子どもとしての霊的な身分や権利、また存在の仕方を問題にしている。したがって、実際に神の子どもとして生きるためには、体の持つ本能や、頭の計算によって生きるのではなく、神の霊に導かれる必要がある。いくら合法的に神の子どもであっても、実際には、奴隷と同じ生き方をすることになる。神の霊ご自身が、私たちの中にいる、人の霊とともに、私たちが神の子どもであることを、この世界に示して下さるという。まずは、信仰をもってその真理を受け入れることだ。

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります(17節)。

ひとり子の神が人間としてこの地上に来られ、最初の神の子としてこの地上で生きて下さった。と言っても、実は、人間たちはみな、その創造の初めにおいて、神のかたちに、神に似せて造られた、神の子どもであったが、サタンに騙され、例え話にある弟息子にように、自分たちの父から迷い出て、失われた者、死んだ者、父の子と呼ばれる資格のないものになってしまった。それをキリストが、私たちが再び父のもとに行くことができるように、その道を開いて下さった。したがって、このキリストを受け入れ、その名を信じる者だけが、神の子どもとなり、神を自分の父として、聖書に約束された霊的祝福、権威、権利や力を相続することができる。言い換えれば、キリストは、同じ神を父とする、私たちの兄弟であり、私たちは、キリストとの共同相続人である。

今回から、「キリストとの共同相続人」というタイトルで新しい説教シリーズが始まる。私たちは、キリストとの共同相続人として、いったいどんな祝福を相続しているのだろうか。それがあまりにも凄いので、びっくりしないように。




過去のメッセージシリーズ

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